──── 2013年の冬、ドラマ『ウロボロス−』のアクション練習で渡韓した際に出会い、そこから10年以上ソウルと東京で親交を深めてきた藤本信介さん。共通の友人も多く、何度も食事をしてきた大切な友人でもあります。今回はそんな藤本さんに、韓国映像業界や日韓食事情、そして「おいしい記憶」についてインタビューをしてきました。
佐野
信介さんはもう長年韓国で映画を中心に現場の演出部や通訳をやってらっしゃいますが、そもそも映画とかドラマとか、小さい頃から好きだったんですか?
信介
うん、好きやったね。でも映画を好きになったのはめちゃめちゃ遅くて、中三の終わり頃。それまでは実は映画はどちらかというと嫌いだと思ってた。
佐野
嫌い、は逆に珍しい気がします。なぜだったんですか?
信介
わざわざ高いお金を出して劇場に行って観る必要があるのかって思ってた。別にテレビでもやってるし、レンタルビデオで数百円で観れるのに、なんで劇場で観なきゃいけないんだって思ってて。
佐野
たしかに私たちの小さい頃ってテレビ全盛期でしたもんね。
信介
そうそう。親も映画が好きじゃなかったし、映画館に連れてってもらうこともほぼなかったから、接する機会が全然なかったんだよね。学校行事で観に行ったことがあったけど、それもあんまり面白くなくて、「やっぱ映画ってつまんないし、高いな」って思ってた。
佐野
なるほど。それが変わったのが・・・
信介
中三の時に友達に「お願いだから一緒に観に行こう」って誘われて観た『スピード』。もう衝撃的すぎて、終わった後すぐに立てないくらいだった。それで一気に映画が好きになった。
佐野
そこから一気に映画制作に興味を持ち始めたんですか?
信介
高校の時はまだ漠然としてて、「パンフレットを作りたい」って思ってた。映画を観ると必ずパンフレットを買って、それを読むことで映画の理解が深まる感じがして。それが自分にとってすごく魅力的で、みんなに映画の良さを伝えたいなって思ったのが始まりだった。
佐野
最初から映画を作るまでの過程とか、その裏にあるものに興味があったといえばあったんですね。
信介
その後富山大学に入ってからも映画を観てたんだけど、具体的に映画制作の仕事に就くとは考えてもいなくて。そもそもそういう選択肢を想像したこともなかった。で、たまたま入っていたゼミで韓国との交換留学が始まったから、その一期生として韓国に行くことになったんだよね。タイミングとしては大学4年の後期から。
佐野
交換留学ってことは韓国語で授業を受けるってことですよね?最初はどうでしたか?
信介
そう。授業の内容なんて全く理解できなかった。自己紹介とか、どこに行きたいとか、そのぐらいの簡単な会話くらいしかできなくて。だけど、日本で仲良くなった韓国人の留学生がいて、彼らが韓国に戻るタイミングで一緒に行ったから、安心感があって。
佐野
その状態で飛び込める信介さんがすごい!
いつか海外に行きたいっていう漠然とした願望があったんだけど、留学についてちゃんと調べるわけでもなく、ただただ大学生活が終わりそうだなって思ってた時期だったから思い切って行ったんだよね。もともと英語圏に行きたくて韓国には全く興味がなかったけど、韓国人留学生と仲良くなったのをきっかけに「韓国も海外やん!」って思って(笑)
佐野
その留学中に映画制作に関わる経験があったんですか?
信介
韓国では韓国映画がすごく人気で、みんなが自国の映画を劇場で観るっていう文化があって、それがすごい衝撃だった。日本だとやっぱり劇場で観るのは洋画がメインだったし。で、友達のお姉ちゃんがスタイリストとして撮影現場で働いてて、その現場を見学させてもらったりして、少しずつ映画制作の仕事に近づいた感じがあった。実際に現場を見ることで、映画を作るっていうことが現実的に感じられるようになったっていうか。
佐野
たしかに、友達のお姉さんみたいに知ってる人が関わってたりするとぐっと距離が縮まりますよね。
信介
そういう韓国での経験があって、ようやく映画制作ってものに対して現実味を感じたのかもしれない。「あ、自分もやれるかもな」って感じがしてきて。2002年に留学してたんだけど、あの時期は日韓ワールドカップがあったから日韓関係も盛り上がってて、雰囲気がすごく良かったし、すごい楽しい1年間だった。
佐野
そして日本に帰国して、どうされたんですか?
信介
4年生の後期に留学して、戻ってきたらまた後期だからみんなもう就職が決まってる感じで、「今さらどうしようかな?」って思って悩んで。韓国での1年間の生活がすごく楽しかったけど、日本に戻ってきて2週間ぐらいですぐに韓国語を忘れ始めてて、言葉が出てこなかった時にもったいないなって感じて、もう卒業したらすぐ韓国に行こう!と決めて卒業と同時に本当に韓国に行ったんだよね。
佐野
その時点で、韓国でどうするかプランはあったんですか?
信介
映画制作に関わりたいともうその時にははっきり思ってて、東京でやるかソウルでやるか迷ったんだけど、東京はすごく怖かったんだよね。知り合いもいないし、なんか電車にちゃんと乗れるかどうかも不安で(笑)。映画の勉強もしてないし、人脈もない。ソウルだったら1年間生活してて慣れてるし、知り合いもいるから。
佐野
東京よりもソウルの方が心の距離が近かったんですね。
信介
そうそう、東京は本当に未知の場所って感じで、そこで失敗して何もできずに帰るのが怖かったから、「とにかく早くソウルに行って映画の仕事を探そう」って決めて、大学の卒業式にも参加せずにすぐに行った。
佐野
家探しとかも大変だったんじゃないですか?
信介
最初は知り合いの家に転がり込んで、そこからいろいろな人に「仕事があったら紹介して」って言いまくって、ソウルに行ってから3ヶ月後にやっと雑用みたいな感じで制作会社に入って。でも、1ヶ月でその作品が流れて(なしになって)しまって、その後の半年間は何も仕事がなくてただ家にいるだけだった。
佐野
そこまできてるのがすごいんですが、それは辛かったですね…。
信介
あの時期は本当に辛かった。何をどうすればいいかもわからないまま、友達と会ってお酒を飲んで奢ってもらうくらいしかすることがなくて。それでも6ヶ月間耐えて、また雑用みたいな仕事があったから応募してどうにかもぐりこめて。また掃除とか雑用ばっかりやってたんだけど、それでも映画の制作に少しずつ近づけた気がしてうれしかったんだよね。
佐野
お給料はもらえてたんですか?
信介
最初の1ヶ月は十万円ぐらいもらえたけど、その後の半年間は全くもらえなくてタダ働き。
佐野
半年間タダ働きですか!?ありえない!
信介
その作品も結局流れちゃったから。今でも覚えてるのが、飲み会の後にタクシー代として千円もらったこと。2回もらったから、合計二千円。それが半年間でもらったお金の全てだったんだよね。
佐野
すごい時代ですね。今だったら絶対考えられないですが…。
信介
たしかに。でも食事は出てたし、交通費も出て、携帯代も支給されてたから、居候してたのもあってなんとか生活はできたよ。
でもソウルに来てちょうど1年経った時、飲み会の帰りだったんだけど、自分がまだ何もできていない不甲斐なさが悔しくて、家に帰る道すがら大きな通りを歩きながら、嗚咽するぐらい泣いた。周りに人もおらんし車の騒音でうるさいから聞こえんだろうと思ってほんとにギャーギャー泣いて。仕事でミスして怒られたりしたのもあって、なんかほんとに悔しかったんだよね。それで思いっきり泣いて気持ちが少しスッキリした。
佐野
思い切り泣くのって大事ですよね。時には自分を悲劇のヒロインみたいに扱うことって大事な気がします。
信介
本当にそう思う。頑張ってもダメなときに、あえて泣いて発散するのって必要だって感じた。
佐野
私も前職を辞める前に異動を告げられた日があって、その日にたまたまこの業界の中で一番尊敬してる女性のプロデューサーの大先輩と食事をする約束をしてて。もう会って話し始めてからずっと号泣で、その人は最後までずっと話を聞いてくれたんですが、最後に「あんた自分のためにそんなに泣けるなら大丈夫だよ」って言われて。その時はその言葉の意味がよくわからなかったんですけど、今思えば、自分のことを諦めちゃったら泣けない気がするから、時には自分のために泣くのは大事だなと改めて思いました。
その泣いた夜からまた頑張り始めて、少しずつ現場に近づいていったんですね。
つづく