18歳の時に大学進学のために地元静岡から一人上京した。大学生の頃は飲食店で長時間のアルバイトをしているか外で遊んでいるか、という日々だったので自宅にいることはあまりなく、家はいつもかなり荒れ放題だった。そんな日々のまま22歳でテレビ局に入社した。最初の結婚をしたのは入社してすぐの頃だったが、ほんとうに、ほんっとうに、生活が荒んでいた。バラエティ・情報番組のADからドラマの助監督になり、「帰宅しているわけではない、ちょっと抜けているだけ」を装って帰宅できる、という理由で会社から徒歩数分のところに引っ越したりもした。職場での記憶はいろいろ思い出せるが、この頃いったい自分がどうやって生活していたのか全く思い出せない。唯一思い出せるのは、異常に散らかった部屋と自分が家族に放つ罵声。生活が荒んでいるだけではなく、自分自身の体も心もひどく荒んでいた。どんなものを食べて暮らしていたのかもよく思い出せないぐらいだ。思い出せるのは、赤坂の中華料理屋、かおたんでチャーハンと麻婆豆腐をテイクアウトして麻婆豆腐をチャーハンに載せて食べる(深夜)というものすごい中毒性のあるご飯のことぐらいだ。
29歳でドラマのプロデューサーになり、30代、少しは生活がマシになるかと思いきや、そこからはアシスタントの時とはまた違う大変さに直面し、仕事をしているか、外ですごい量のお酒を飲んでいるか、全てからの逃避で海外旅行に行っているか、そのどれかしかなかった。「自分の生活」というものを失ってずいぶん時間が経っていた。
渡辺あやさんという脚本家に出会ったのは2016年、34歳の時だった。島根県にあるあやさんの仕事場は、そこに置かれているもの全てがあやさんの美意識によって整えられている、空気がピンと張り詰めているのにどこか優しさや暖かさのある場所だった。美しい一枚板の長いテーブルを挟んであやさんと文字通り向き合い、いろいろな話をした。それまで誰にも話したことのなかった自分自身のこと、ずっと封じ込めていた過去に受けた大きな暴力のことを吐き出して、号泣したこともあった。その日の夜、近くでご飯を食べながらあやさんに言われたのは、「まずは断捨離をして、きちんとご飯を作って食べて、生活を取り戻した方がいいですよ」ということだった。
その時点ですでにあやさんのことはものすごく尊敬していたし信頼していたけれども、今だから言えることではあるが実はその言葉については少し懐疑的だった。断捨離や食事がいったい人生にどんな意味を持つというのだろう。仕事には関係ない。そんなふうに思っていた。
それから数年が経って鬱と適応障害で会社を休んでいた時、ベッドから出られない状態で過去に起こったいろいろなことを考えていて、ふとあやさんに言われた言葉を思い出した。あの時懐疑的だった言葉が、なぜかその時はスッと心に入ってくる気がした。今は仕事には戻れないけど「生活」をしてみよう、そう決めて、毎日はできないけどできるだけご飯を自分で作って食べた。調子がいい日にはお湯をためてお風呂に入った。不思議なくらい徐々に元気が出てきて、小説や漫画を2000冊処分した。洋服も器も人に譲って半分にした。毎日ご飯が食べられるようになった。友達を家に呼んでご飯をふるまったりできるようになった。
「生活」は私の人生を大きく変えた。少しずつ外にも出はじめて、新しい出会いがいくつもあった。翌年からは季節にも目を向けられるようになって、5月になると取り寄せた実山椒をコツコツはさみで外し、下処理して保存をするようになったり、らっきょうを漬けたり自家製の果実酒を作ったりすることも始めた。今では梅の季節には梅仕事をして友人に配ったり、糠床を始めたりもしている。仕事と旅しかなかった私の人生は、相変わらずうまくいかないこともたくさんあるけれども、数年前には想像もしていなかった豊かな彩りが加わって、仕事も以前よりずっとのびのびと取り組めるようになった。過言ではなく、あの時の渡辺あやさんの言葉、「生活」を取り戻したこと、ご飯をちゃんと食べるようになったことが人生を変えてくれたように思う。子供が生まれて生活は大きく変わったけれども、これからもちゃんと生活を大事にしていきたい、今はそんなふうに素直に思える。
わたしの素
今年はすでに実山椒、梅シロップ、塩らっきょうと(自分的な)大物の仕事を終えたので、新しい季節の手作りに挑戦したいなと思っていろいろとリサーチしている。引っ越しで糠床もダメにしてしまったので、新しい糠も始めたいと思いこれもまたいろいろとリサーチしている。育児と仕事でいつもいっぱいいっぱいでも、ちょっとした隙間にそういった生活のことを考えるのが今の密やかな楽しみ。