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尾上克郎さんへのインタビュー <br>第1話「たまたま、を引き寄せる力」

映像と記憶の扉

尾上克郎さんへのインタビュー
第1話「たまたま、を引き寄せる力」

──── 『シン・ゴジラ』(2016)の准監督・特技統括をはじめ、映画を中心にドラマ・CMなどさまざまな分野で活躍されている尾上克郎さん。今回たまたまご縁があってこのインタビューの依頼をしてみたところご快諾いただき、尾上さんのこれまでのお仕事、人生のこと、そして「おいしい記憶」についてインタビューをしてきました。

 

<尾上克郎さんプロフィール>
1960年鹿児島県生まれ。株式会社特撮研究所専務取締役、日本映画大学特任教授、大阪芸術大学客員教授。第73回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
主な作品『陰陽師』(2001年)、日本沈没(2006年)、のぼうの城(2012年)、 進撃の巨人・前編/後編(2015年)、シン・ゴジラ(2016年)、大河ドラマ:いだてん ~東京オリムピック噺~(2019年)「シン・ウルトラマン(2022年)など。

映画との出会い、
美術部としてのキャリアスタート

佐野
尾上さんがこの業界に入るきっかけはどんなものだったんでしょうか?そこからぜひ教えていただけると嬉しいです。

尾上
もともと映画を観るのは好きだったんですけど、自分が映画業界に入るどころか、人生にそういう選択肢があるなんて思ったこともなかったです。大学で上京した後も、特にその道を目指すみたいなことはなくて。でもその頃ちょうど自主映画ブームで、学生がいろんな映画を作っていたんですよ。今でも活躍している監督の多くがその時期から頭角を現していました。石井聰互さんや飯田譲治さん、阪本順治さん、手塚眞さんとかですね。

佐野
す、すごい時代です!そのブームの中で尾上さんご自身にも影響があったんですか?

尾上
高校の同級生で後に映画監督になる緒方明というのがいまして、石井監督の助監督をやってたんですよ。そいつが「お前、なんか作るのとか得意だっただろ?」って、誘ってくれてですね、美術部で。そして気がついたらズルズルとのめり込んで、自主映画界隈の人たちとの付き合いも始まりました。

佐野
映画業界へのそんな入り方があるんですか…!?ある意味でとてもうらやましい時代です。最初は美術部だったんですね。

尾上
そうです。いわゆる「作り物」が最初。自主映画ってお金がないじゃないですか。で、映画を作り続けるためには外でお金を稼いでこなきゃ、ってことで人づてに紹介されたのが、東映撮影所にあった美術装飾会社だったんですよ。

佐野
自主映画を作るために商業映画の現場で働くことになったわけですね。尾上さんの人生がどんどん映画制作の世界へ転がっていきますね。

尾上
それでその会社に行ったら「お前ちょっとやったことあるんだろ?」「明日7時に新宿に来い」って言われて。もちろんほとんど何も知らないわけですが、翌朝新宿でトラックに乗せられて、いきなり現場で持道具の仕事を始めることになりました。

佐野
今だったらちょっと考えられない状況ですが、そこからいきなり始めることができる尾上さんがすごいです…。現場に師匠みたいな人がいたんですか?

尾上
いや、あのときは本当に一人でした。20歳そこそこだったし、正直、怖かったです。見て覚えろ!が常識の時代で丁寧に教えてくれる人なんてほとんどいない。今、思えば本当にひどい現場が多くてね。徹夜、早出残業は当たり前。たまに撮影が定時に終わると、プロデューサーが「もっと撮れるものあるだろう!?現場に戻れ!」って怒鳴るなんてこともありました(笑)。当時は、そういうのが当たり前だった。

佐野
噂には聞いていましたが、本当に恐ろしい時代だったんですね。そしてそんな中で、完全に初心者の状態で入られて、現場で、独学で学んでいったと…。すごいです。
その後、美術のお仕事から特撮のお仕事を始めたのはどういうきっかけだったんですか?

尾上
あの頃は、大掛かりでないドラマや映画だと、小道具とか持道具の人が映画効果用の火薬を使って弾着とかをやることもあったんです。映画の効果用火薬を使うには、花火師さんと同じ資格がいるんですよ。で、火薬の講習会に行って資格もらって、現場で先輩の仕事を見ながら覚えていくうちに、弾着やちょっとした爆破の仕事なんかも任されるようになったんです。

佐野
ここでもどんどん流されながら、どんどん適応していくのがすごすぎますね。

尾上
そう、なんですよねぇ…、流されて行き着いた先に合わせることができただけでしょうけど(笑)。クビになるのが怖くて「お前できる?」って言われると、やったことなくても、つい「はいっ!」なんて答えちゃうもんだから、その都度、新しいことを覚えなきゃなんない。いろんなことが、なんとなくやれて便利だから重宝されたのかもしれません。その頃、子供番組につくことも多くて、小道具係や着ぐるみの管理とか修理まで一人でやっていました。

佐野
そういう、今では部署が分かれているけれども当時は一緒にやっていたっていうことが他にもいろいろあったんですか?

尾上
たくさんはなかったと思いますけど。特撮がらみで言えば、火薬なんかを扱う特殊効果の部署とミニチュアを動かしたり、ワイヤーで人を吊ったりする操演という部署はきちんと分かれていたんですが、その頃には両方を一緒にやってしまう人も多くなりました。予算の問題もあったし、撮影所システムが崩壊したというのもあって、皆フリーにならざるを得なくて、何でもやらなきゃ食えなくなったってこともあったんでしょう。

佐野
確かに昔はフードコーディネーターって仕事もなかったと聞きました。尾上さんは現場でお料理も作っていたんですか?

尾上
昼のメロドラマとか、助監督さんと一緒にメニューを考えて作ってました。焼き魚と味噌汁とご飯とか、その程度ですけどね。

佐野
実はこの連載を始めたきっかけは、私がNHKでドラマをやったときの美術担当の方の話を聞いたことにあるんですが、その方が伊丹十三さんの映画『タンポポ』であのラーメンを作った、朝5時に鶏ガラから自分でスープをとって作ったって話をしてくれて。監督が「うまい」って言ってくれて行列ができたと聞きました。当時は現場がそういう感じだったんだなあと。尾上さんご自身はお料理の勉強はされたんですか?

尾上
まったくそれはないですね(笑)。先輩たちがみんな料理上手だったんですよ。だから、見様見真似。ベテランの大道具さんに包丁の研ぎ方なんかも教えてもらったりして、現場でいろいろ覚えました。
今は衛生面も含めて、すごく注意しなければならなくなりましたから昔と同じようにはいきませんよね。あの頃は、まだゆるかったから。

佐野
たしかに、料理だけじゃなく全体的に、現場で「何とかするよ」ってすることが許されなくなりましたね。基本的には全て「先に決めてください」と言われますし、もちろんそのいい面もあるのは理解しているのですが、「現場判断」の良さもあるなとは思うので、難しいところです。

尾上
そうですね。決めるべきところと、その必要があんまりないところの境目がなくなりましたね。そういう意味では窮屈だし、「閃き」は出しにくくなったと思います。僕自身、たまたま映画作りという仕事に就けて、先のことなんかロクに考えもしないで、今まで流されるまま、なんとなくやってきたけど、どうにかなってるんだよね。物作りってそういうところがあってもいいんじゃないですかね(笑)

一度逃げ出したからわかる映画作りの魅力、
そして盟友との出会い

佐野
なんとなく、で今の尾上さんのいらっしゃるところまでたどりつけるのか…と驚きしかないのですが、その「なんとなくやってる」からはっきりこの仕事に定着したのはいつ頃だったんでしょうか?

尾上
実はある時、仕事の人間関係で何もかも嫌になっちゃって、逃げ出したことがあるんですよ。ひょんなことで知り合ったカメラマンの方が「香港にいるから、なんかあったらおいで」って言ってたな…と思い出して、とにかく日本を離れようと思って、それで香港に行っちゃったんです。本当に来たのか!?と驚かれたんですが(笑)、行ったらすぐに仕事を紹介していただけて、9ヶ月くらいいました。

佐野
またまたすごい話ですね。突然香港に行って、すぐに9ヶ月も仕事をする、というのは自分には全然想像できないのですが、例えば言葉はどうされたんですか?

尾上
拙い英語と現地で覚えた挨拶程度の広東語ですね。住処もスタジオの人が手配してくれたし、現場で食事にもありつけますから。そこが映画のいいところですね。
その頃日本でもCMの海外撮影が増え始めて、「香港に変な日本人がいるらしいぞ」っていう噂があったみたいで、ロケハン手配しろとか案内しろとか言われて、下見に行ったりレンタカーを借りてスタッフを迎えに行ったり、そういうこともやりました。

佐野
ここでまた、美術や特撮の分野にいたはずが、海外ロケコーディネートにまで手を広げられるのが本当にすごい。今日はすごいしか言ってないです(笑)

尾上
いやいや、自分で望んだわけじゃないし、若かっただけですよ。

佐野
若くてもそこで未知の世界に飛び込める人とそうじゃない人がいるとは思いますが…。香港の後はどうされたんですか?

尾上
仕事が途切れたこともあって、日本に一度帰ったんですけど、今度はCMの海外撮影の助監督とか、カメラ助手みたいな仕事が入るようになってですね。

佐野
なんと、そこでまた新しい仕事に取り組むわけですね。

尾上
CMだけじゃなくて、いわゆる博覧会映像も多かった時期で、世界中のきれいな風景とか、鯨が飛ぶところとか、オーロラを撮りにいくとか。人数が少ないから、制作部的なこととか演出的なこともやらなきゃならないし、現地のカメラマンと二人っきりなんてこともありました。自分が何屋だかわかんなくなって(笑)。

佐野
そこからまた映画の世界に戻ったのは何かきっかけがあったんですか?

尾上 
乱暴な言い方をしてしまうと「ギャラはいいけど、面白くねぇな」って感じになってきちゃったんですよ。そもそも映画の勉強もきちんとやったことなくて、現場で見様見真似で覚えたことだけでやっていたんで、映画のちゃんとしたスタッフに対してコンプレックスがあったんですけど、やっぱり映画の方がギャラは少なかったけど楽しかった。


モンゴルにて(2006)

佐野
撮影の仕事は肉体的にも精神的にもとてもハードだから、それでもやりたいぐらい楽しいかどうか、というのは仕事を続けられるかどうかの鍵になる気がしますね。それで映画の世界に戻って、特撮の仕事に集中し始めたんでしょうか?

尾上
特撮研究所の主要スタッフがこぞって韓国の仕事に行くので、日本の仕事の穴埋め要員として声をかけられまして、操演と特殊効果部としてしばらく面倒になることになりました。特撮みたいに、見る人を驚かせる仕事がやっぱり好きなんだと改めて気づきまして。その頃、秋葉原で先駆けだった、CGお披露目会を偶然見たんですよ。ワイヤーフレームで紙飛行機が飛んでる映像だったんですが、「これからはこれだ!」と妙な確信をもっちゃってですね。24、5歳のときだと思うんですけど、予備知識も全くないのにとりあえずパソコンだ!と思って、帰ってすぐにローンを組んでパソコン買って。

佐野
そこでまた自分でなんでもやっちゃう尾上さんが登場するんですね(笑)

尾上
自分で何かを始めるときのハードルをあんまり高く感じない、というか、「人間がやってることだし、俺でも、できるんじゃね?」って思っちゃうんですよ。スポーツとか芸術だと、なにかしら天性のものが必要だと思うんですけど、そういうのとは違うから、ちょっと頑張って基本を押さえれば、大概できるだろうと。独学でプログラミングを勉強したりね。まだやってる人も少なかったし、CGって言葉すらあんまり知られてない時代でした。

佐野
いや、もう本当に感嘆するしかないのですが、「これだ!」っていう直感みたいなものがあったんですか?

尾上
アメリカからものすごい特撮作品が雪崩のごとく入ってきた時期で、自分がやってる従来型の日本の特撮に疑問を持ち始めた時期だったんだけど、あの映像を見たときに、いずれコンピューターの中で全部を作れる時代が来ると直感めいたものはあったと思います。アメリカで「モーションコントロール」っていうコンピューター制御でカメラやミニチュアを動かす仕組みが開発されて「これは絶対にやりたい!」となるんだけど、思いとは裏腹に、当時、参加してた作品じゃ、お金もないから人には頼めないし、自分でやるしかないわけで。モーションコントロールも理屈を海外の専門誌やなんかで研究して秋葉原で制御モーターを買って、一から自作したりもしました。


昭和40年頃の日本橋のミニチュア撮影(2018年)

佐野
大学生の自主映画からかなり遠くまで来ましたね…。

尾上
でしょ(笑)。結局、居心地が良かったから特撮研究所にそのまま居続けるようになったんですけど、1年のうち半分ぐらいそこで働いて、残りは個人でいろいろな他の仕事を受ける、というゆるい感じを許してくれたんですよね。その頃に樋口真嗣(監督)とか庵野秀明(監督)とも知り合って。もう37、8年ですかね。そこから関係が続いてます。

第2話へつづく



尾上克郎
1960年鹿児島県生まれ。株式会社特撮研究所専務取締役、日本映画大学特任教授、大阪芸術大学客員教授。第73回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。
主な作品、『陰陽師』(2001年)、『日本沈没』(2006年)、『のぼうの城』(2012年)、『進撃の巨人・前編/後編』(2015年)、『シン・ゴジラ』(2016年)、『大河ドラマ:いだてん ~東京オリムピック噺~』(2019年)『シン・ウルトラマン』(2022年)など。
インタビュー・写真撮影:CANSOKSHA

 

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