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呪いと祝福

呪いと祝福

プロデューサーの仕事をはじめて13年になる。人生山あり谷あり、いろいろな作品に関わっていろいろな人に出会っては別れ、ずいぶん遠くまできたなあ、と感慨深くなることもあるけれど、13年前と変わらず今も、ずーっと連続ドラマのことを考え続けて生きている。会社をお休みしていた期間ものちに『エルピス』になる作品の制作は止めずにしていたし、盆暮れ正月関係なく、お休みの日でもやっぱりずっとドラマのことをうっすら考えている。この「うっすら」というのが大事で、決して休んでいないわけではない。それでも、例えば子供をベビーカーに乗せて散歩している時、目の前を歩いている素敵な女性を見かけて、ああ、この上下の洋服の合わせ方、今度やるドラマの主人公の衣裳の参考にしたいな、とか、友達の上司の愚痴、新しく配属された上司がいかに無駄な会議が好きか、というような話を聞きながら、このエピソードはあのドラマに使えるな、とか、常にぼんやりと「今後のドラマに使えること」を収集しながら生きている。
職業病、と言ってしまえばそれまでだけど、この癖は私の人生にとって呪いのようでも祝福のようでもあると思う。
映画を観に行っても、特に日本映画だったりすると余計に、あの役者さんは次の企画のこの役にオファーできるだろうかとか、自分だったらこのシーンをどういうふうにするだろうかとか、そういうわかりやすい職業思考に脳を焼かれていて純粋に物語を楽しむことができなくなった。それは自分にとって呪いのようなものだったが、それを避けるために海外の、絶対に自分が真似できないような作品を多く観るようになって、たくさんの素晴らしい物語に出会えたことは私にとって大きな祝福だった。出産の時に部屋にテレビがついていてDVDを観られるようになっていたので、陣痛の合間に観られるものをと思い、家族に伊丹十三のDVDBOX(ガンバルみんなBOXの方)を持ってきてもらって、長い陣痛に苦しみながら合間合間に『タンポポ』を観た。宮本信子さんの衣裳、あの黒いタイトなトップスに白い前掛けというスタイルがさりげなくかっこよくて、こういう衣裳を着た飲食店の店主のドラマをいつかやりたいなあとあれこれ妄想し、なんだかそのことに救われたような気持ちになりながら無事出産を終えた。

 

産後は思ったよりずっと早く心身ともに元気になったので、油断してはりきって動き回っていた。そもそも自分の会社の方は産休や育休がないので、産後1ヶ月で対面の本打ちをしていたし、3ヶ月で海外出張にも行ってしまった。そうして初めての育児に悪戦苦闘しながらどうにか日々を生き延びたものの、産後しばらく経ってから、唐突に激しい倦怠感と疲労感に襲われた。毎日何をするにも億劫で、疲労でベッドから起き上がれないこともあったが、娘を寝かしつけたあと、ボーッとしながら離乳食ストックを作っていると、茹でた小松菜をみじん切りにしている自分を見下ろしているもう一人の自分の視点がふと頭の中に現れた。
今までドラマで離乳食のストックを作っている女性って出てきただろうか? 乳児の育児に追われる主人公ってどうだろうか?

自分の日々が取材対象になったら俄然元気が出てきた。どれだけ寝かしつけに手こずってもくたびれても、離乳食を全てひっくり返されて途方に暮れても、そこに取材対象として自分を見ているもう一つの俯瞰の目線が登場して、どこかおかしみを感じるようになった。ふむふむ、せっかく牛肉が食べられるようになったからミートソースを作ったんだけど一口しか食べないのね。ああこれが噂に聞いていた離乳食拒否か、なるほどね。毎日どれだけギリギリで生活していても、娘がどんなふうに振る舞うか、自分がどんなふうに感じるか、その一つ一つを、“取材なのだから”ちゃんと覚えていようと思えるようになった。写真を撮るのが苦手で娘の写真すらあまり撮れていなかったけど、記録として残しておくようになった。私の職業病は私を救ってくれ、娘との生活を豊かにしてくれた。

思えばドラマを作るとき、ずっと大切にしていたのは「当事者性」だった。どれだけ自分が当事者になれるか、なれないときはどれだけ当事者に取材できるか。自分自身が育児に必死な今この時、これまでドラマの中であまり描かれてこなかった(かもしれない)無数の子育て中の人たちの、一生懸命な姿が自分の前に後ろに連なっているように感じる。自分を取材しているようで、きっとそういう脈々とあるいろいろな人たちのことを取材しているような、そんな気もしている。

わたしの素

 最近引っ越しをした。それまでずっとワンルームのような部屋で子育てをしていたので、娘が寝たあとは常にヒソヒソ声、映画は音声を切って字幕のみ、という生活だった。それはもうひどく仕事にも生活にも精神にも大きく響いた。引っ越しをして娘が寝たあとに“自分の生活”ができるようになって、ようやく何かを取り戻しつつあるような気がしている。夜はなかなか自宅を離れられないけれども、友人たちが来てくれて一緒にご飯を食べながらお酒を飲んだり、時には休日の早い時間から娘も一緒にホームパーティをしたり。先週も友人たちが家に来てくれてみんなで餃子を作った。餃子は本当に美味しかった。この夜のことも、餃子が美味しかったことも、きっとこの先どこかのドラマで、ヒョイっと顔を出すような気がしている。

 

映像と記憶の扉 アンバサダー

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