ORD/言葉2 前編
ORD/言葉2 前編
食事を空想するプロジェクト

ORD/言葉2 前編

──── 徳島大学 准教授の東風谷さんを招いて、今回のテーマORD(言葉)の対談がはじまりました。

 

東風谷 太一
大学院社会産業理工学研究部 社会総合科学域 国際教養系ヨーロッパ分野 准教授 

 

山野
前回は「曖昧」というテーマでお話をしました。曖昧なものを言葉にするのって難しいんですけど、今回はそこからもう少し進めて、「言葉」が持っている力や魅力について考えてみたいと思っています。以前、東風谷さんが、「ビールがお腹を満たす食事的要素のものから嗜好品へ変わっていった」という話をされていたのがすごく印象に残っていて。同じ“ビール”という言葉でも、時代によって意味や役割が変わっていくんだな、と感じたんです。しかも、それって時代だけじゃなくて、社会や文化、場所によっても違いますよね。日本でいうビールと、ドイツでいうビールでも、きっと意味合いは違う。そこには環境や歴史、社会的な背景も含まれている気がします。
そんなことを考えていた時に、「言葉」と「おいしさ」の関係について、東風谷さんにぜひ話を聞いてみたいと思いました。今回は、徳島大学准教授の東風谷さんとお話ししていきます。

東風谷
まず自己紹介からはじめますね。大学で教員をしています。専門は歴史学で、もう少し細かく言うと、ヨーロッパ史やドイツ語圏の歴史を研究しています。身近なところで言えば、中学や高校の歴史教科書がありますよね。ああいう教科書の、さらに前段階にある専門的な研究をしている、という感じです。ただ、歴史学って、実は最近まで「おいしさ」や「食そのもの」を、あまり扱ってこなかったんです。これはヨーロッパに限らず、日本でも世界的にも、ある程度共通していたと思います。というのも、長い間、食べることや料理することって「女性の領域」と考えられてきたからなんですよね。国家や政治のような“大きな歴史”とは別のものとして扱われてきた。だから、歴史学の中心的なテーマにはなりづらかったのではないかなと考えています。でも最近になって、食べることって、人間の生活そのものを支えている基盤なんじゃないか、という考え方が広がってきました。食べ物がどう作られて、どう流通して、誰と食べられていたのか。そこには、人間同士の結びつきや、格差、植民地の問題まで見えてくる。そういうことが、ようやく真剣に研究されるようになってきたんです。
一方、僕自身は最初から食に興味があったわけではありませんでした。大学院生の頃、修士論文で何を書くか悩んでいた時に、「ドイツではビールが高くなると暴動が起きる」という話を見つけたんです。それを読んだ時、「なんなんだ、それは」と思ったんですよね。米の値段が上がって暴動が起きるならまだわかる。でも、ビールで死人が出るほどの暴動が起きるのは、なぜなんだろう、と。そこから調べていくうちに、19世紀のドイツ語圏では、ビールをめぐる暴動が急に増える時期があることが見えてきました。そして僕は、その背景には、ビールが“革新的においしくなった”ことがあったんじゃないかと考えるようになったんです。つまり、人々にとってビールが単なる飲み物ではなく、「これは失いたくない」と思うような存在になっていった。その変化が、暴動という形で表れていたんじゃないか、と。ずっとそういうことを調べてきて、去年、その研究を一冊の本にまとめました。そこでは、ビールのおいしさや、人々がどんなふうにビールを飲んでいたのか、ということを書いたりしています。

山野
「ビールが革新的においしくなった」という話が出ましたけど、そこって今回のテーマでもある「おいしいって何なんだろう」という話にもつながる気がしていて。たとえば、“劇的においしくなった”と言っても、単純に味そのものが大きく変わった、ということだけではないのかなとも思うんです。それまで限られた場所でしか飲めなかったものが、価格が下がって、いろんな人が家でも楽しめるようになったとか。今で言うと、昔はパブに行って飲むものだったビールが、コンビニで缶ビールを買って帰って、家でも十分おいしいと感じられるようになった、みたいな変化に近いのかなって。つまり、実際に味が変わったということだけじゃなくて、「おいしい」と感じる人が増えたこと自体が、おいしさの広がりにつながったのか。それとも、本当に味そのものが変化したのか。“ビールが劇的においしくなった”というのは、具体的にはどういうことだったんでしょう。人々は何をもって「おいしい」と感じるようになったんですか。

東風谷
なるほど。さっき山野さんが言っていた「言葉」の話でいうと、19世紀半ば頃に「ビールがおいしい」っていうことを表現するための単語が、ドイツ語圏で急激に使われ始めたんです。ドイツ語だと「süffig(ズューフィッヒ)」っていう言葉なんですけど、日本語に訳しづらくて。辞書にはちゃんと載っているんですが、僕はもうカタカナで「ズューフィッヒ」って書いています。もともとは、今のドイツ西部、ライン川流域あたりで使われていた言葉なんですね。あの辺はワイン産地なので、最初は「このワイン、おいしいね」っていう感じで、ワインを評価するために使われていた。で、それが19世紀になると、ビールにも使われるようになっていくんです。一応、辞書的に言うと、「酒の味わいが良い」とか、「飲み口が良い」みたいな意味なんですけど、単純に味だけじゃなくて、「つい飲み進めてしまう」とか、「気持ちよく飲める」みたいな感覚も含まれている言葉なんですよね。
それがある時期から突然、あの南ドイツの首都バイエルン、しかもミュンヘン新聞とかで今年のビールは「ズューフィッヒ」だったとかっていう表現が使われるようになって、それがドイツ語圏に広がっていったんです。今でも使う言葉ですね。
ビールの種類で、エールというものがあって。人類史のかなり古い段階から作られてきた飲み物です。大麦や小麦に、空気中にある酵母が自然に入ることで発酵するような、とても原初的な酒だったんですね。それに対して、19世紀頃になると、ミュンヘン周辺でラガービールが安定して大量生産されるようになります。そして、この新しく登場したラガービールに対して、人々は「ズーフィヒ」という、それまで主にワインに使われていた“おいしさ”を表す言葉を使うようになった。僕は、これはラガービールが、それまでのエールと比べて非常においしかったことを示していると思っています。わざわざ新しい言葉で評価する必要があったくらい、人々にとって印象的な味だった。そうした変化が、ビールをめぐる暴動の背景にもつながっていたんじゃないかと考えています。

山野
でも、「おいしい」って、結局は好みでもありますよね。私ビールを飲まないから、エールもラガーも、どちらも「ビールだなあ」くらいの感覚で、一口目はおいしいけど、そこまで大きな違いを感じていなかったりもする。だからこそ気になるのが、本当に人々はラガーを飲んだ時に「これはおいしい」って感じたのか、それとも、「おいしい」と言われ続けたことで、そう認識するようになったのか、ということなんです。新聞や周囲の言葉によって、「これはおいしいものなんだ」という共通認識が作られていくことって、ある気がしていて。
たとえば、「夕日きれいだね」とか、「三日月きれいだね」って繰り返し言うことで、その景色に対する感覚が共有されていくことってありますよね。うちの息子も、三日月を見るたびに「きれいだね」って教えてくれるんですけど、そうやって言葉にすることで、「三日月=きれいなもの」という感覚が、自分たちの中で育っていく感じがある。
ビールのおいしさも、少しそれに近いのかなって思ったんです。誰かが「おいしい」と言って、それを聞いた人が「たしかにおいしいかも」と感じて、さらに別の人に伝わっていく。そういう言葉の力って、結構大きいんじゃないかなって。
子どもの頃、祖父が「初物のトマトはおいしいよ」って毎年くれていて、私はずっと「初物っておいしいんだ」と思っていたんです。でも今思い返すと、実は一緒にかけていた粗塩がおいしかったのかもしれない(笑)。でも、そうやって「初物はおいしい」という感覚を、知らないうちに共有していたんですよね。だから、「おいしい」って、味そのものだけじゃなくて、社会の中で言葉によって作られていく部分もあるんじゃないか、そんな気がするんです。
だから掘り下げて考えると、なんかこうなんだろう、言葉っていうものが人に与える影響っていうのは、言葉そのものよりも実は大きいんじゃないかとさえ思うというか。

東風谷
それはもちろん、その通りだと思います。つまり、すごく単純に言えば、「流行っているから飲む」っていうことは十分あり得るし、実際そういう人たちもかなりいたと思うんですよね。言い換えると、言葉が現実を作っていく、ということなんだと思います。
たとえば、19世紀後半の資料を読むと、若い男性労働者が、恋人だったり、気になっている女性だったりとデートに行く時には、ラガービールを出す店にしか行かない、みたいな話が出てくるんです。もちろん、本当にラガービールがおいしいと思っていた人もいたと思う。でも一方で、「格好をつけたい」という気持ちも大きかったはずなんですよね。それって、今とそんなに変わらないと思うんです。おしゃれなお店に行こうと思ったら、みんな雑誌を読んだり、友達に聞いたりして、「何が流行っているのか」を調べるじゃないですか。そうやって言葉や情報を通して流行が共有されて、人の行動が変わっていく。だから、「ラガービールがおいしい」という言葉が広まることで、人々の行動や人間関係まで変わっていった側面は、確かにあったと思います。ただ、その一方で、「じゃあ客観的なおいしさはなかったのか」というと、決してそんなことでもない。
たとえば、ルイ・パスツールのような科学者たちは、ラガービールは、それまでのエールに比べて品質が大きく改良されている、と実際に評価していたんです。アルコール度数も高くなっていたし、衛生面でも改善されていた。19世紀のヨーロッパでは、産業化が進む中で、強い蒸留酒を大量に飲む人が増えて、健康問題やアルコール依存が社会問題になっていました。イギリスではジン、スウェーデンでも蒸留酒によって平均寿命が下がったと言われています。その中で、ドイツでは「ビールの方が健康的だ」という主張が科学者たちによって広まり、それもあってビール文化が強く残っていった。もちろん、本当に健康だったかどうかは議論の余地がありますが、少なくともラガービールの品質が改良されていた、というのは当時の人々にとって実感のある変化だったんだと思います。

山野
研究をするときって、結局、過去に残された情報を読み解いていくわけですよね。私はガラスを作っているから、昔の絵画を見ると、そこに描かれているグラスの形や使われ方から「当時はこんな小さいワイングラスだったんだ」とか「ワインは高価だったのかな」とか、結構いろんなことを想像するんです。逆に「こんな形のガラスは当時の技術では絶対作れないからこれは別の素材を参考に描いたんだろうな」とか、考えたりもする。
でも味って、絵ではわからないじゃないですか。ラガービールとエールが描かれていても、どっちがおいしかったのかは見ただけでは判断できない。ただ、その場で人々が楽しそうに飲んでいたり踊っていたりする様子が描かれていると、「ビールって、みんなで楽しむものだったんだな」みたいな空気感は伝わってくる。実際にどんな資料を読んでいるのかが気になりました。さっきの「デートの時にはラガービールを出す店に行く」みたいな話も、誰かの日記に残っていたものなのか、それとも新聞や雑誌に書かれていたものなのか。今回のテーマ、「言葉」なんですよね。おいしさって、味そのものだけじゃなくて、言葉によって形づくられている部分があるんじゃないかと思っていて。社会史って、人と物との関係性を見ていく学問じゃないですか。そこに「おいしさ」というものを置いて考えた時、人とおいしさをつないでいるのは、結局言葉なんじゃないかっていう気がしているんです。以前、東風谷さんが、ビールが「お腹を満たすもの」から「嗜好品」に変わっていった、という話をしていたのがすごく印象に残っていて。そういう感覚の変化にも、言葉ってかなり影響しているんじゃないかなって。
言葉って、時代や文化によっても意味が変わるし、そもそも訳しきれないものもあると思うんです。そういう、“言葉では完全に置き換えられない感覚”みたいなものについて、今回なにかヒントが聞けたらいいなと思ったんです。

東風谷
今、山野さんの話を聞いていて思い出したのが、さっきお話しした「ズューフィッヒ」という、日本語ではなかなか訳しきれない言葉のことです。辞書にはもちろん定義が載っているんですが、当時の新聞を読んでいくと、地域によって、その言葉が指している“おいしさ”が結構違うんですよね。ある地域では「まろやかで、ほのかな苦味がある」という意味で使われているのに、別の地域では「軽やかで甘い」という意味で使われていたりする。同じラガービールを表現しているはずなのに、「それってむしろ逆のことを言っていない?」と思うような違いが出てくるんです。もちろん、地域ごとに作られているビールそのものが少し違った、というのもあると思います。でも、それ以上に大きいのは、その土地に生きてきた人たちの身体的な経験や、長い時間の中で身についた感覚なんじゃないかと思うんです。
つまり、人が「おいしい」と感じる時には、その土地で何を食べてきたのか、どういう味に慣れているのか、そういう身体の記憶みたいなものが関わっている。だからこそ、同じ「ズューフィッヒ」という言葉でも、地域によって意味している感覚が少しずつ変わっていくんじゃないかな、と感じています。

山野
なるほど。同じ「ズューフィッヒ」という言葉を使っていても、実際にどう感じるかは、その土地に暮らしている人によって違う、ということなんですね。それはたしかにすごく自然なことかもしれないです。

東風谷
そう思いますね。たとえば関西の出汁は鰹節の風味が強かったり、関東は醤油の味が濃かったりしますよね。そういう地域ごとの習慣って、僕たちは子どもの頃から身体で覚えていくわけです。だから、「おいしい」の基準も、育った環境によって自然と変わっていくんだと思います。同じ「出汁」という言葉を使って話していても、頭の中で思い浮かべている味は、実は全然違う、ということも十分あり得るんじゃないかなと思います。

山野
つまり、その地域ごとに、言葉の背景にある意味自体が違うってことですよね。
それって社会全体でも同じなのかもしれないなって思うんです。最近よく考えるのが、「おいしい」って、味だけじゃなくて、思い出や時間とも結びついているんじゃないかっていうことで。食べ物って、ずっと同じ状態では残しておけないじゃないですか。賞味期限もあるし、「もっと早く食べておけばよかった」みたいな感覚も含めて、おいしさって存在している気がするんです。
だから、「おいしい」という一つの言葉の中にも、実はかなり幅があるんじゃないかなって思っていて。社会背景によっても変わるし、100年前の人が感じていたおいしさと、今の私たちが感じるおいしさって、同じリンゴひとつでも全然違う気がするんですよね。シャキシャキしたリンゴが好きなのか、柔らかい方が好きなのか。酸っぱい方がいいのか、甘い方がいいのか。そういう感覚って、その時代の空気や、自分たちの身体感覚とも関係している気がしていて。
でも、それを社会史として読み解こうとすると、すごく曖昧でもある。言葉としては残っていても、その時代の人が本当にどんな感覚で「おいしい」と言っていたのかは、完全にはわからない。だからこそ、そういう「おいしい」という言葉の中にある、共通認識みたいなものにすごく興味が湧きますね。人が「おいしい」と感じる時に共有している感覚って、すごくおもしろいし、魅力的だなって思います。

後編につづく

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