トップページへ
「おかわりする豚汁」

「今日もていねいに。」

「おかわりする豚汁」

松浦弥太郎

エッセイスト

松浦弥太郎

ハワイ島のヒロの街を歩いていたら小さなギャラリーがあった。
歩道からギャラリーの中を覗くと少年が立っていた。栗毛の美しい少年だった。少年は飾ってあった絵をじっと見つめて動かなかった。絵の多くは、おそらくヒロの風景のひとつである虹を描いたものだった。ぼくは、その前日の夕方、街から海に向かって二重の大きな虹がかかっていたことを思い出した。

ヒロの街はオールドハワイの雰囲気がたっぷり残っていて、町を歩けば、昭和を思わせるカフェや商店が多く、会う人会う人が日系アメリカ人のおじいさんやおばあさんで、ハワイらしいトロピカルな風景などひとつもなかった。人影も少なく、あるのはしんとした寂しさだけだった。けれども、なんだか故郷に帰ってきたような不思議なあったかさがあった。ぼくはそんなヒロが好きだった。

カラフルなパン生地で有名なレインボーブレッドを売る「ロウ・インターナショナル・フード」は行きつけの店のひとつだった。オーナーのロウさんが中国人だからなのか、古きよきアメリカンダイナーのような趣なのに、中華料理の定食が食べられるという不思議な店だ。

日曜日の午後、ぼくは一人で「ロウ・インターナショナル・フード」でコーヒーを飲みながら一冊の本を読んでいた。読んでいたのは、ニューヨークの友だちにもらった「アナイス・ニンの日記」だった。ヘンリー・ミラーの「北回帰線」が好きだと言ったら、「ヘンリー・ミラーの恋人だったアナイス・ニンが、赤裸々に描いた当時の人間模様はおもしろい」と言って渡してくれたのだ。どこまで事実で、何が真実なのかわからなくなるくらいに赤裸々なので、確かに時間を忘れるほどにおもしろかった。

そうやって本を読んでいたら、窓ガラスを叩くような雨音に気がついた。「さっきまであんなに晴れていたのに」とつぶやくと、店の女性が「スコールよ。ヒロはいつもこんなかんじ」と言った。
厨房からなんだか懐かしい匂いが漂ってきたので「いい匂いがする」と言うと、「豚汁を作ってるのよ。よかったら食べますか?」と女性は言った。

豚汁は母の得意料理だった。豚バラ肉をこれでもかと入れるのが我が家の豚汁だった。「豚汁はお味噌汁というよりも豚肉料理のひとつ」と母はよく言っていた。カレーがそうだったように、豚汁も大きな鍋いっぱいに作るので、毎日のように食べられるのが嬉しかった。今でも、これさえあれば、という料理のひとつだと思っている。

ちょうどお腹も空いていたので、豚汁だけでなく、小さなおにぎりを握ってもらい、それをワンプレートにしてもらった。豚汁に使っていたのは白味噌で、玉ねぎとほうれん草となぜかコーンが入っていて、豚肉はたっぷりでボリューム満点でおいしかった。「ハワイで豚汁かあ」と思ったが「ハワイだけどここはヒロだもんなあ」と思い直した。

「よかったらおかわりしてください。たくさん作ったので」と女性が言うので、「あ、それではお願いします」と言って、豚汁のおかわりをした。そういえば、幼い頃、ぼくは豚汁が大好きだったので必ずおかわりをしていた。そうそう、豚汁はおかわりをするものだと決まっていた。おかわりした豚汁は、一杯目よりも不思議と味が違っておいしかった。

豚汁とおにぎりを食べ終えると、旅先でありながら、そこが自分のふるさとのようなぬくもりある安心感に包まれた。
ふたたび本を開くと、「人生とは、その人の勇気に比例して、小さくも大きくもなる」というアナイス・ニンの言葉が目に入った。ぼくにとっての勇気とはなんだろう? ぼくには勇気はあるのだろうか?とぼんやりと考えた。
そのときのぼくは旅をしながら何かを探していた。探していたのはきっと自分に欠けているもの、もしくは失ってしまった何か、手放してしまった何かだった。
その何かとは勇気だったかもと思った。

「虹よ」と店の女性が窓の外を指さした。窓の近くに行って目を凝らすと、雨はすでに上がり、雲ひとつない青空に大きな虹がかかっていた。昨日見た虹よりも色が濃くて美しかった。

ぼくはいつまでもその虹を見つめていた。

わたしの素

もうひとつ。これさえあればの料理に、ひじき煮がある。ひじき煮は、作り置き料理の定番で、わが家においては、切り干し大根とひじき煮、きんぴらごぼうが常備菜になっている。ひとり暮らしをした頃、当時は自分で作ることはなかったので惣菜屋さんでひじき煮をよく買い、ふだんのおかずとしてよく食べていた。いちばん大好きだったのは、炊きたてのごはんの上にたっぷりとひじき煮をのせて、かきまぜながら食べる、いわゆるのっけ丼だ。他におかずはいらないくらいにおいしかった。戻したひじきに、細切りしたにんじんと油揚げを加えて、だしと醤油とみりんでじっくりと煮るだけのかんたん料理。食べる際に刻んだゆずの皮をそえるのも忘れない。先に書いた、三つの常備菜があれば、毎晩、料理をひとつ作って、お味噌汁があれば、最高にぜいたくな献立になる。

連載

「今日もていねいに。」の扉

松浦弥太郎

エッセイスト

松浦弥太郎

少しちからをぬき、キホンを大切にする松浦弥太郎さんと、彼ならではの素をつくる、くらしと食事。

記事一覧