詩と余白
祈りのオートミール、熊、魚
詩人
菅原敏
ぎりぎり午前中にベッドを抜け出して、キッチンへと辿り着くまでの長い旅路。昨夜言い過ぎてしまったこと、言えなかったこと、いくつかの後悔、みんなの眩しさ、おのれの不甲斐なさ、そんなものたちを全て無かったことにしてくれる、祈りのオートミールを食べなければ今日無事に社会に復帰することなどできない。というほど大袈裟ではないにしても、お酒を飲んだ翌日や、旅から戻った日、乱れた生活が続いた時などには、起き抜けに白湯を飲み、決まってこのオートミールを作っている。ご飯とお味噌汁の朝食も多いけれど、なんだかんだと週に2、3回は食べているのではなかろうか。
レシピと言えるほどのものはなく、時々で入れるものは変わる。大抵は深めの皿に、オーガニックのオートミールを大さじ2杯、クコの実(ゴジベリー)を数粒、水と豆乳を半々で電子レンジにいれて数分。加熱してとろりと粥状になったオートミールに再度豆乳を少し入れ、ナッツをひとつかみ、冷凍ブルーベリー少々、蜂蜜小さじ1、すり黒ごま大さじ1、亜麻仁油を少々、もしあればカマンベールやブルーチーズをひとかけ、最後にシナモンパウダーをひとふり。バナナの薄切りや、りんご、柿などを添えることもある。定番の副菜としては、目玉焼きとブロッコリーなどのグリル野菜、秋冬は何かのスープ、柘榴ジュース炭酸割り、食後にお茶かコーヒー。飽きもせずに似たようなものばかり食べている。
祈りのオートミールと大袈裟な名前をつけているものの、それは生活を整えるための小さな儀式のようでもあり、切なる祈りというよりは「まあ今日から仕切り直して頑張るか」といった類の、自分の背中をぽんと軽く叩いてくれる励ましのようなもの。
ときどき映画の劇中で、家族揃って神様にお祈りをしてから食べるというシーンを見ることがある。目を閉じて「いただきます」と言う私たちの言葉も、古(いにしえ)からのかすかな祈りの連なりで、最近では仕留めた熊肉を食べる際に、深く祈って頂くというニュースを見た。私も気付けば食事の前にはひとりでも「いただきます」と手を合わせている。だが本当の意味で切実な祈りをこめて何かを口に運んだ食卓は最近あっただろうか。
岩場の陰から出てきた魚はとても大きく見えた。私は銛(もり)の端っこについたゴム輪に手首を通してギリギリまで伸ばして柄を掴み、呼吸を止めて魚に狙いをつける。動きの止まった僅かな瞬間に、銛を解き放ち、魚を貫いた。魚は逃れようともがいている。まだ小学生だった私は喜び勇んで空いている片手と両足で水を掻き、海面を目指した。海から顔を出して改めて獲った魚を見ると、思っていた大きさの三分の一ほどの小さな魚だった。水中眼鏡のせいで随分大きく見えていたのだろう。そんな風に初めて魚をついたのは小学生のころ、毎年夏休みに訪れる山形の海だった。
山形の祖母の家。二階へ上がる階段の下には、小さな三角形の納戸があった。そこには水中メガネ、シュノーケル、浮き輪、ゴムボート、釣り竿、網、虫かご、そして祖父や父がかつて使っていたという銛が何本か。そんな道具たちが古い新聞の敷かれた棚に納められていた。そこにはいつでも夏が閉じ込められていた。
「今日のお味噌汁は特別だね」と祖母は私が獲ってきた小魚をお味噌汁にいれてくれた。私の椀だけに入っている小魚。あんなに大きく、生き生きと泳いでいた魚は今とても小さく、くたっとして、ところどころ白身が見えていた。小魚の身を箸でほぐして口に運ぶ。初めて自ら奪った命を口にしたときに抱いたあの気持ちを、いまでも思い出すことができる。
もう一年が終わってしまうのかと、のそのそと布団でこの原稿を書いている。時刻は11:05。お昼前にはなんとか起きて、遅い朝食に祈りのオートミールを食べるだろう。そしてそれはきっと、とても幸せなことだろう。今年もすこやかに、私の身体を作ってくれた沢山のものたちにありがとうの気持ちをこめて。今日はきっと少しだけ長く目を閉じ、手を合わせ、いつもの言葉をつぶやくだろう。

わたしの素
遠い食卓
今から一番遠い食卓は
どれほど前の食卓だろう
まだ言葉を持たなかった私たちは
それでも
祈りに似た何かを捧げたのだろうか
壁画に何かを描いたのだろうか
明日は自分が
誰かの一部になるかもしれない
背中に大きな傷を負うかもしれない
あなたはもういないかもしれない
だからこそ一日一日
今日という日の糧こそが特別だった
土に座り
くちびるに乾いた血
かみきれぬ肉をかみながら
それぞれに目を見合わせる
あなたといること
今日も生きていること
その事実が本当に嬉しいと
確かめながら
エッセイ・詩:菅原敏
コラージュアートワーク:花梨(étrenne)
連載
詩と余白の扉
詩人
菅原敏
日常の余白に言葉を重ね、想像の世界をひらく詩人・菅原敏さん。彼のらしさの素をつくる詩と、ともに語られる食事の記憶。