VAG/曖昧3
「曖昧」には、想像できないことが広がっていると想像する楽しさがあると思う。なんともこじらせた大人風の分かりにくい表現から書き出してしまった。けれど、「曖昧」には分かりにくい要素もあるので、そんな分かりにくい表現ですら「曖昧」を物語っている気もしている。明確な答えがないからこそ、私たちは自分流に想像し、答えを求めるのかもしれない。そしてその答えも永遠の大正解ではなく、流動的で変化するところに面白さがあると思う。柳原さんと話して、想像したことを曖昧のまま含みを持って落とし込むことの包容力も感じた。そしてそれは、誰かからこれが正解!と言われている感覚とは違い、自分自身で見つけなくてはいけない感覚でもあり、そこに責任が生じる気もした。自分を知る力と信じる力、そして順応力を持って立ち向かえるのが曖昧なのかとも思えた。
それは何かを追い求めて一生終わらないリノベーションをしているサマーハウスのような感覚でもある。スウェーデンではサマーハウスのリノベーションは自分でやることがほとんどで、何年もかけて少しずつリノベを進めているうちに生活スタイルが変わったり、別のアイデアが浮かんだり、その変化に合わせて方向性を変えるので全然終わらない。リノベ自体を心から楽しんでいる友人たちを見ると、それが趣味となり、人生の喜びにすらなっているので、全くネガティブな要素はないし、その繰り返しがきっと楽しいのだと思ってしまう。
それでも、何か(「何か」とはとても曖昧な表現だけど)を作り出す時、心象風景を追い求めすぎて実は非現実的な世界を作ってしまうことが私は怖い。とても表面的で現実の自分に申し訳なく思うからかもしれない。現実にある行為から生まれる形にも人それぞれの解釈や好みがあるけれど、現実の自分たちを認めた先に豊かさがあると信じているからそう感じるのかもしれない。
ウェス・アンダーソンの「グランド・ブタペスト・ホテル」に出てくる食事シーンでのホストテイスティング用のグラスを思い出した。通常ホストテイスティングはそのワインをサーブするワイングラスに少量注がれて、ワインを頼んだホストが、銘柄やそのワインに欠陥がないかを確認して問題がなければそのままそのワイングラスにサーブされる。しかし、映画の中ではホストテイスティング用に一口飲める小さいワイングラスにワインが用意されていて、なんとも軽やかに美しくそのワインを試した。とてもロマンティックでおいしそうな行為だった。もし映画用に作り出された新しい行為を当たり前であるかのように創作されたものなら、なんとも素晴らしく感動的だ。需要があるかは分からないけど、作ってみたくなって、先月、少しボディーの形を変えて4脚ほど作ってみた。作ってみたら、ワイングラスの口径が小さくて、ボトルからワインを注ぐのに苦労した。ソムリエは片手にボトルを持ち、もう片方に傾けたホストテイスティンググラスを持ち、相当集中してワインを注がなくてはいけないことになる。その行為は、技術を磨かない限り美しく見せるのには危うさがあるけれど、ホストテイスティンググラスに注がれたワインをホストがスッと飲む行為はとてもロマンティックだ。実際にホストテイスティンググラスを作ってみたら、現実的行為ではないことがよく分かったけれど、映像美や情景美は格別だった。世の中にはその行為に憧れてホストテイスティンググラスを必要とする人も(4人ぐらいは)いるかもしれないけど、現実世界の私には現時点では必要ない気がしている。
私は、想像と現実のギャップを探るのが好きだ。それはどちらが正しいとか間違っているということではなく、そこには曖昧な「思いやり」がありそうな気がする。これを書きながら思い出していたのは、祖父が毎年トマト農家から入手していた露地物の「初物のトマト」だ。祖父はもう15年以上前に他界してしまったし、私がスウェーデンに住んでいることもあり、この記憶は30年以上前の話だけど。祖父が行きつけの農家から今ではあまり見なくなった不格好な「初物のトマト」を手に入れては私たちに「初物だよ」と嬉しそうに分けてくれていた。子供心に絶対美味しいに決まっているつもりで食べていた。祖父があまりにも嬉しそうなので、こちらも味を深く考えずに「初物のトマト」にかぶりついて、3〜4口食べて、粗塩なんかふってみたり。今思えば子供にはさっぱりした味の初物よりシーズン真っ盛りに食べる濃厚なトマトの方が美味しく、塩味を堪能していたと言ってもおかしくない。けれど、私は「初物」と聞くと・読むと、私の祖父の優しさ分が加わって最高においしい言葉として理解している。
柳原さんとの会話でも出てきたけれど、人によって「おいしい」と言ってもそこに含まれた意味が違う場合もある。それでも私たちは曖昧なまま「おいしさ」を解釈し、共有することができるのは、そこにそれぞれの情景や感情が広がっているからだろう。
このプロジェクトを始めるときにも、五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)そのものではなく、それぞれにある言葉の力を大いに借りたいと思った。それはつまり、抽象的なものであり、想像の力でもあるのだけど、私たちが個々に持ち合わせているものへの信頼とも言えるとも思っている。もちろん、想像するためにはある程度の実体験がないと、言葉の持つ広がりも変わってくるとは思うけれど。
言葉の持つ世界、もとても気になっている。
VAG/曖昧1
VAG/曖昧2 前編
VAG/曖昧2 後編
VAG/曖昧3