VAG/曖昧1
25年以上前、自分が制作を開始したころから「人それぞれの個人的な豊かさ」を考えている。「十人十色」、「千差万別」、「ダイバーシティ」など何となくの言葉は存在するけれど、それぞれの個人的な豊かさなど正直、知る由もない。それでもその自分の知らない誰かの豊かさを考えてモノ(私の場合はガラス食器がメイン)を生み出す時、ある種の葛藤のようなものがいつもあった。過去形にしてしまったが、未だにある気もする。
多種多様な思考や行為を想像しても曖昧な輪郭しか掴めないのが現状で、その曖昧な輪郭をより鮮明にしたくても、知れば知るほど多様性がよく分からなくなった。もちろん友人や知人とのコミュニケーショから彼らの個人的なことを理解できることは多いし、「個の豊かさ」はそういう個別な思考に宿っているのは確かだ。人並みに本を読んで、そこに書かれる「人」の思考や行為を気にしたり、旅をして普段自分が存在しない世界を観察したり、映画を観て、その中に描かれた世界をより客観的に、それでも当事者にでもなったかのように経験したりもしている。けれど想像上では「個人的な豊かさ」を掴めている気がしても実際のところは分からないし、ただの自分の想像であって表面的な気もしてしまう。
小学生の頃から母や友人との交換日記を通して、自分の気持ちを言葉に書き留めることが習慣になっていたのだが、中学生の時には友人に悩みを打ち明ける術を知らずにいて、フラストレーションをノートに殴り書いてスッキリさせていた。ある時の殴り書きにこんなエピソードがあった。中学生の思春期真っ只中の私に、母が「親の気持ちを分かりなさい」と言った。「お母さんは子供だった経験があって子供の立場が分かるはずなのに、なんで私になったこともない親の立場を理解しなさい、と言うのだろう。」と。なったことのない「親の立場」を中学生がなったつもりで想像する。所詮、空想は空想で当事者にはなり得ない。けれども、想像力を働かせる努力はとても大事だ。残してあった言葉から、親になった今でもその時の「中学生の自分」の立場を思い出して想像する材料にはなっている。
おそらく自分には分かり得ないことがあるに違いないと曖昧にでも当事者になったつもりで想像することが大切なのだと思う。そして、たとえ当事者として完全に理解できなくても、お互いを思い合える気持ちが大切なのだと今なら分かる。
ガラス食器制作に関して、誰かの個人的な理想を合理的に効率的に形にすることが好きだ。具体的なオーダーメイドで「この行為のためのガラス食器が欲しい」と個別の依頼を受けることの方が制作しやすく、得意な気がする。具体的な個別な行為の方が、より鮮明に想像が膨らむからだろう。自分の合理的な思考が好きな時もあるけど、もう少しどうにかロマンティストになれないものかと、悩ましい時もある。欲を言えば「合理的ロマンティスト」を求めたい気もするけど、そもそも、合理性とロマンティックは共存するのかしら。
ロマンティストになれない自分に少しのコンプレックスがあって、曖昧にできる勇気が欲しいとさえ思う。「ロマンティク」と「曖昧」の定義は全然違うのかもしれないけど、私は何かそこに神秘的魅力を感じる。
料理することはとても合理的なことだと思うけど、そこにはちゃんとロマンもある。料理をする場所や食事をとる空間にはやはり神秘的な魅力があると感じている。「美味しい」と言葉にしても、その味の感覚はなんとも個人的であり曖昧な感覚だ。そして「美味しい」と共感しながら食べる空間は、曖昧でロマンティックでもある。
レストランなどは特に人が求めるいつもの日常とは少し違う/非現実的な世界がある。料理や食事をする空間には合理性も必要だけど、曖昧な心地よさもちゃんと欲しい。そもそも、落ち着く心地よさは慣れからくるのか。もしくは象風景のような社会的環境から影響されて作り出された価値観が心地よさを作り出すのだろうか。まるで映画の食卓のシーンのような、そこに客観的視点が入る感覚が必要なのだろうか。はたまた人それぞれの五感が研ぎ澄まされる感覚が必要なのか。それともまた別の何かなのかしら。全てのバランス感覚でもあるのかもしれないけど、その視点やその五感の場所をどこに置いて形ができるのだろう。
曖昧なことの魅力は痛いほど分かるし、不思議にも世界は曖昧でできている気さえしている。でも、曖昧の形ってどうやって作るのだろう。
曖昧の美しさ、気になっている。
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