食事を空想するプロジェクト
ÖVERSIKT/あらすじ3
ガラス作家
山野アンダーソン陽子
例えば「誕生日の食事会」のように、設定を明確にすることが読者にも対談者にもわかり易く伝わって深い話ができるのかと思っていたのだけど、それによって制限をされ過ぎてしまうのは本末転倒だと思った。永井さんと話して、今回のプロジェクトでは、どうやら初めから何かを決める必要はなく「あらすじ」はなくても良さそうだと思えた。
永井さんの出会ったおいしさの話はちゃんと現実なのに、非現実的な美しさもあった。鴨の肉から出る脂を想像して、夕日に照らされて輝く湖の水面すら思い浮かべたほどだ。なんならその湖面に逆光で黒く影になっていたけど鴨が2羽いた(空想)。私の興味はいつだって「現実」から遠く離れず、少しだけアレンジを加えたようなものな気がする。それは、たとえば、誰かのレシピを自分流に適当にアレンジしちゃうご飯のような。スウェーデンで作るお味噌汁に冷蔵庫の奥に忘れられていたフェンネルやディルを入れたり、麻婆豆腐の豆腐の代わりにセルリアックを使ったり、「ネギトロ」は手に入り易く脂がのって美味しいサーモンとベランダで育てたリークでリークトロサーモンにしたり。
ある時、ある所では現実でも別の時、別のところではほんの少しの変化となって想像上の「別の現実」を作る。話を聞くだけでは、完璧に想像しえない領域もある。たとえばそれは味覚とか臭覚とか。それでもちゃんと自分の知識と経験で補って想像上の現実を作るのだと思う。
「おいしさ」とは、つまり食べることで、必要なことだし、世の中の人がそこにどんな形で携わっているのか、ますます興味が出た。
もしかしたら、おいしさって平和のことなのかもしれない。今回のプロジェクトで、自分なりにおいしさを考えた先の先になんとなく「平和」を感じている気がする。例えば、自分が好きなアイスクリームを食べる時、すごい怖い人に食べろと言われて銃を突き付けられていたら「私、これ好きだったはずなのに、全然おいしくないな」ってなってしまうと思う。きっと強制されて食べることって、おいしいと思えないのではないだろうか。そう考えると、平和であるというだけですごいおいしさを感じる気がする。
小学校五年生の息子は、一年に一度、平和のことを作文に書く課題が出される。原稿用紙2枚に書くのだけど、今年は「なんで毎年毎年、僕たちは平和について考えなければいけないんだ」みたいな文句から書き出した。朝食を食べながら、父親に「平和って何?」って聞いて、私にも聞いて、日本に住む祖母にも聞いて。そうしているうちに、朝食をすっかり食べ終わって2〜3時間経って、またお腹が減ってきて。その時に彼の中で「平和ってお腹がいっぱいになることなんじゃないか」と気づいたらしく、それを書き続けた。
スウェーデンって給食費も無料で、毎週木曜日がスープの日なのだけど、そのスープが気に食わないっていうことも付け加え出した。みんなスープが好きじゃないから大量にスープが残る話。息子なりに考えたのは、毎週木曜日はスープって勝手に決められるより、子供たちに意見を聞いてそれを反映し、そのスープを作る材料を使って子供たちが好きなものを作った方がみんなにとっていいのではないかということ。世の中の人がお腹いっぱいになればいいと思ってるかもしれないけれど、自分の好きなものを好きな人と食べれらるということが平和なんじゃないかっていうことに行き着いて作文を書いていた。私は、漢字や誤字脱字のチェックをしながらそれを読んで、シンプルだけど、とてもしっくり来ていた。
もっと付け足すなら、誰にも邪魔されずに一人で食べたっていい。人の目を気にせず、好きなものを好きなように食べられる幸せも捨てがたい「平和」であると思った。
永井さんが「食事は誰にとっても共通のテーマであるのだけど、人それぞれに違う」と言っていたけれど、その違いをもっと知りたいと思った。その違いを広げて話していけたらいいなと思ったし、そこに個性が出る気もしている。
もう少しこのプロジェクトが進んだら、また永井さんと話してみたい。次はどんなおいしさの話が聞けるかな。もしかしたら、空想上の鴨を尻目にその湖畔で豚が日光浴でもするかもしれないな。
ÖVERSIKT/あらすじ1
ÖVERSIKT/あらすじ2 前編
ÖVERSIKT/あらすじ2 後編
ÖVERSIKT/あらすじ3
Graphic Design:Tomoko Yamashita
Project
食事を空想するプロジェクト
ガラス作家
山野アンダーソン陽子
「空想の食事会計画」を通じて、おいしさの可能性をたのしく妄想していきます。