夏のニューヨークは楽しみが多い。
毎夏ニューヨーク市民が楽しみにしているのは、セントラルパークで開催されるサマーステージと呼ばれる無料コンサートだ。1973年のキャロル・キングのライブでは、なんと10万人が集まったことで知られている。
ある夏の日、フォークシンガーのジョーン・バエズが出演すると聞き、ファンの僕は喜んでかけつけた。「一緒に歌いましょう!」と言葉を投げかけたバエズ。往年の名曲を歌ったライブは最高に良かった。
その帰り道、セントラルパークの歩道で小さな包みを配っている若い女性がいた。赤いバンダナを頭に巻き、白い木綿のシャツにベージュのキュロット、白いスニーカーを履いていた。手には柳のつるで編んだバスケットを持っていて、その中に包みがたくさん入っている。
「ブラウニーをどうぞ!」と言って、道行く人に彼女はその包みを渡していた。「ありがとう」と言って受け取る人もいれば、無視をして通り過ぎる人もいたが、彼女の健気な明るさが僕の目を引いた。「ひとつください」と言うと、「もちろん!」と言って、女性は僕の手に包みを渡してくれた。
白い紙で包まれていたのは、サイコロを少し大きくしたくらいのチョコレートブラウニーだった。口の中にぽんと投げ込むと、香ばしいカカオの香りがふわっと広がり、トッピングされたクルミとレーズンがおいしさのアクセントになっていた。少し疲れていたせいか、何か甘いものが欲しいなと思っていた矢先だったので、こんなふうにチョコレートブラウニーを配る彼女はまるで天使のように見えた。
「おいしい。ありがとう」と伝えると、「わあ、ありがとう。よかったら包み紙に書いてある店に遊びに来てね」と彼女は言った。くしゃくしゃになったブラウニーの包み紙を広げると、手書きで「リリーズ書店」と店の名があり、所在地であるヴィレッジの地図が記されていた。
「クッキングブック専門の私の本屋よ。ブラウニーがもうひとつ食べたかったら、いつでも店に来るといいわ」と微笑んだ。「あなたがリリーさん?」「そうよ、私がリリーよ」と言って彼女は手を差し出した。
それから数日、僕はリリーという名をどこかで聞いた覚えがあると思い、どこでどんなふうに聞いたのか思い出そうとしていた。
ある午後、ヘルズキッチンのウエストエンドアヴェニューにある「CAKES」というデリカテッセンのカウンターで、有名な老舗古書店「STRAND BOOKSTORE」で働くピーターという二歳上の青年とコーヒーとアップルパイを食べていた時のことだ。「リリーという女性を知っている?」と聞くと、「リリー? ブックハンターのリリーのこと?」とピーターは言った。僕ははっと思い出した。そうだ、ニューヨークで一番優秀なブックハンターは若い女性で、その女性の名はリリーと、少し前に「SKYLINE BOOKS」の店主から教えてもらっていたのだ。
サマーステージの後、セントラルパークでブラウニーを配っていたあの女性は、ニューヨークいちのブックハンター。かの有名なリリー本人だったのだ。僕がその経緯をピーターに話すと、彼女には「ブラウニー・リリー」というニックネームがあると言い、「彼女はいつも手作りのブラウニーを人に振る舞っているからさ。それがまたおいしいからさ」とピーターは笑った。
「ブラウニー・リリー」。なんてかわいらしいニックネームなんだろう。それでいて、誰も見つけられないような稀少本をどこからともなく探し当てる彼女のエピソードは数えきれないらしい。
そんな話を聞いた僕は、居ても立っても居られなくなって、溶けたブラウニーがところどころに付いた包装紙を片手にヴィレッジの彼女の店に向かった。
つづく
わたしの素
サンフランシスコを訪れると、必ず「ZUNI CAFE」というレストランに行く。この店でいちばん有名なのはローストチキンだけど、シーザーサラダのおいしさも忘れることはできない。そんなある日、「ZUNI CAFE」の料理本を見つけ、シーザーサラダのレシピが書かれているのを見つけたときの喜びようはなかった。もちろん、早速作った。おいしさのコツは、シーザードレッシングをロメインレタスに、道具を使わずに手でていねいに塗ることだった。一枚いちまい、葉をこわさないようにやさしく塗る工程こそが、最高においしいシーザーサラダを生み出している。僕の作るシーザーサラダはおいしいよ、と胸を張って言える自慢の一品である。