「ねえ、明日イタリアに行くんだけど一緒に行かない?」とリリーが言った。
「明日? そんなの急過ぎる。行けるわけないよ」と僕が戸惑うと、リリーはいたずらっ子のような顔をして、「サブウェイで30分よ」と笑いながら言った。
古書店を営むリリーと僕は、好みの本が似ていることから妙に気が合い、出会った日からすぐに仲良くなった。リリーにはパートナーのサムがいたけれど、サムは学んでいる音楽史に夢中で、リリーと僕が共通の趣味で仲良くなっているのは公認だった。
リリーが言うには、ロウワー・マンハッタンにも3ブロックほどのリトル・イタリーはあるけれど、それよりもマンハッタン北部ブロンクスのアーサーアヴェニュー地区のリトル・イタリーはなんと100年以上の歴史があり、それこそディープなイタリアが体験できるらしい。まさにニューヨークに居ながらしてイタリアを楽しめるという小旅行だ。
「アーサーアヴェニューで本物のカンノーリが食べたいの」とリリーは言った。カンノーリとはイタリア語で「筒」を意味し、小麦粉の生地を丸く筒状にしたものに、リコッタチーズベースのクリームを詰めたシチリア名物のスイーツだ。「注文すると、クリームを詰めてくれるの。ほんとうにおいしいのよ」とリリーは微笑んだ。アーサーアヴェニューは、本場イタリアのおいしさが他にもたっぷりあり、食べ歩きが最高に楽しいとも言った。
料理本専門の古書店を営むリリー。顧客の多くは料理人で、マンハッタンだけでなく、わざわざ外国からも昔の料理本を探しにくるらしい。その中の一人に有名なイタリアンレストランのシェフがいて、彼はチーズやサラミ、スパイスなどの仕入れでアーサーアヴェニューに通っていて、ある日、リリーも興味がてらに同行をした。すると、この街の雰囲気に一気に惹かれてしまったらしい。街全体がイタリアそのものだから、イタリアに行かなくてもイタリアが楽しめる! 大きなイタリアン食材のマーケットもある、とリリーは僕に熱弁した。
「そんなにカンノーリが好きなら、ブラウニー・リリーから、いつかカンノーリ・リリーになるんじゃない?」と僕がからかうと、「カンノーリは簡単そうだけど難しいのよ。あの生地もそうだけどあのおいしいクリームが作れないわ。私には無理よ」とリリーは笑った。
リリーいわく、おいしいものを食べるための旅くらい楽しいものはなく、まさに旅の楽しみはその土地のならではの食である。ということで、平日の朝早く、僕とリリーはダウンタウンからサブウェイに乗って、ブロンクスのアーサーアヴェニューへの小旅行に出発した。乗り込んだ電車は5番と2番のどちらかで、目指すはE180ST駅。
僕はニューヨークを訪れて、イタリアに行けるなんて本当にラッキーだと思った。ブロンクスはちょっと遠くて、一人ではなかなか行けそうにもないから、とにかくおいしいもの好き(特に甘いもの)のリリーという友人が一緒だから心強かった。
わたしの素
ニューヨークに友人がやってくると、必ず連れて行った朝食の店がある。1908年創業のジューイッシュ・デリカテッセン、アッパーウエストサイドにある「BARNY GREENGRASS」。この店のスペシャリテは数々のスモークフィッシュ。中でも朝食メニューにあるホームメイドのスモークサーモンをたっぷり使ったスクランブルエッグが最高においしい。トーストしたベーグルにのせて食べると、皆、言葉を失ってしまうくらい。僕はこの朝食を何人の友人に食べさせたかわからないが、そのおいしさにびっくりして、ニューヨーク滞在中に何度も通うことになるのがいつものことだ。歴史ある店だから当然かもしれないが、セントラルパークウエストに住んでいたマリリン・モンローも常連の一人。決して高級な店ではないけれど、アップタウンならではの独特な客層もニューヨークらしくて好きなのです。自分の人生の中で、あと何回この店に行けるのだろうと考える数少ない店のひとつ。