

一ヶ月ほどパリに旅行をしたKさん。
「パリはどうでしたか?」と聞くと、「そうね、街がほんとうにきれいだったわ」
Kさんは、ぼくに紅茶を淹れながらそう答えた。
「でも、それは上を見て歩いているかぎりよ。下を見ればワンちゃんのうんちだらけでほんとにまいっちゃった」と笑いながら肩をすくめた。
「何がおいしかったっていうとバケットね。もちろんクロワッサンもおいしいけれど、今まで自分が食べてきたバケットは何だったかと思うくらいにおいしかった。朝、パン屋でバケットを買った人が、帰り道でつまんで食べながら歩いているんだけどその気持ちがよくわかるわ。だって、香りもいいし、パリットした食感とか、噛めば嚙むほどにすごーくおいしんだもの。なんでもあるというニューヨークで、あのおいしいバケットはパリに行かないと食べれないのがくやしいわ」
Kさんは窓の近くで遠い目をした。
「それでね。今日の朝、ブロンクスのTerranova Bakeryでバケットを買ってきたの。あなたと一緒にパリで覚えたホットドッグを作ろうと思って」
Terranova Bakeryといえばパン好きには有名な老舗のパン屋だ。イタリア人がオーナーの店だが、バケットも焼いていて、ニューヨークでおいしいバケットを買うならここしかない。
ホットドッグは19世紀の中頃、熱々のソーセージを食べるためにパンではさむ、「フランクフルター」という食べ物を、アメリカにやってきたドイツ人が広めたことで知られている。横に長いパンからソーセージが飛び出しているのがダックスフンドに似ていることから、犬が連想されてホットドッグとなり、今やアメリカのソウルフードのひとつになっている。
「パリのホットドッグはケチャップを使わないで、代わりに粒マスタードとチーズをたっぷりと使うのよ。これがまたバケットに合うの。びっくりよね」とKさんは言った。
「さあ、作りましょう。その名もパリのアメリカ人」
Kさんはレシピを説明しながら手を動かした。
まず、バケットを横15センチくらいの長さに切り、さらに横半分に切って、ウインナーソーセージをはさむための切り込みを入れる。
断面にバターをまんべんなく塗って、茹でたウインナーソーセージを切り込みにはさみ、その上に、削ったグリエールチーズをかける。
粒マスタードを全体に塗って、さらにもう一度、削ったグリエールチーズをたっぷりとのせる。これをオーブントースターで2分ほど焼く。あまりに簡単なので、あっという間に出来上がった。
「さあ、食べましょう。パリのホットドッグをどうぞ!」
Kさんはガブッと食べて、口についたマスタードを指でぬぐった。
「おいしい!」
ぼくもガブッと食べた。横半分に切ったバケットが食べやすくて、ほくほくのウインナーソーセージがぱりっとはじけ、溶けたチーズと粒マスタードが絶妙だった。
バケットのカリッとした食感も実においしかった。
もぐもぐと食べながら、ぼくは「おいしい!」を連発した。
「私からあなたへのパリみやげは以上です!」
そう言ってKさんはぼくに手を伸ばしてハグした。
レシピがおみやげだなんて初めてだった。
とてもうれしかった。
わたしの素
子どもの頃に食べていたクロワッサンは、何もかもがやわらかくて、かすかなバターの香りが外国を感じさせてくれて好きだった。フランス語で三日月という名前にもうっとりして惹かれていた。
はじめてパリを訪れたのは二十代の半ばだった。街角のカフェで食べたクロワッサンのおいしさといったらなかった。皮がサクサクしていて、しっとりした内側はそれこそバターの風味がたっぷりで、「これが本物のクロワッサンかあ」としみじみ味わった。ちぎったクロワッサンをカフェオレにひたして食べている現地の人を見て、真似をしてみたらもっとおいしかった。
大人になった今、夕方の散歩の帰りに、明日の朝食のためにクロワッサンをひとつ買って帰ることがある。最近の日本ではパリと変わらぬおいしさのクロワッサンが食べられるけれど、あの頃に食べたふにゃふにゃのクロワッサンがとても懐かしい。今食べてもあれはあれでおいしいと思う。食べたくて探しているけれどまだ見つからない。