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everything for good times.

everything for good times.

前回の続き


「クレラの作るハニーマスタードソースは特別おいしいのよ」。

マリーさんがそう言うと、カウンターテーブルを拭いていたクレラは手を止めて、はにかんだ。
「母のレシピなんです。わが家はみんなハニーマスタードソースが好きで、いつもテーブルにあって、どんな料理にも使っていました」と言った。
クレラのお母さんは南仏生まれのフランス人で、ハニーマスタードソースは代々作り続けられたもので、子どもの頃は、バター代わりにパンに塗って食べていて、それがとってもおいしいとクレラは言い、それを聞いたマリーさんが、そんなにおいしいなら店で使いたいから作ってみてと頼んだところ、そのおいしさにびっくりしたらしい。

店の人気メニューのハムとチーズのサンドイッチは、長さ20センチほどのホットドック用のパンの断面にバターを塗って、スモークハムとブリーチーズをはさんだだけのシンプルなものだ。ところが、ある日バターの代わりにクレラのハニーマスタードソースを塗って客に出したところ、客はそのおいしさにいたく感動して、その日を機に毎日顔を出すようになった。もちろん、ハニーマスタードソースが塗られたハムとチーズのサンドイッチを食べるために。
しかも、客が客を呼ぶようにして、クレラのハニーマスタードソースは、ヘルズキッチンの食通の間で話題になった。ハニーマスタードソースだけを売ってほしいという客も現れた。

クレラにおいしさのコツは何かと聞くと、「パンの断面に塗り残しがないように、ていねいに塗るだけ。あとはおいしくなりますように、と思いながら、具材を食べやすいように切り分けてはさむだけよ。ハニーマスタードソース作りも一緒。特別なことは何もしていないわ」と言い、おいしさというのは、どんな気持ちで、どんなふうに作るのかが大事だということを僕に教えてくれた。

「レシピは聞いちゃだめよ。クレラは何でも隠さずに言ってしまうから」とマリーさんは笑った。クレラは下を向いて、サンドイッチ用に洗ったグリーンリーフを一枚いちまい、真っ白なキッチンタオルで水気を拭いていた。
「水切り機を使っていいよ、と言っても、クレラはこうしたいと言って聞かないのよ」とマリーさんは肩をすくめた。

自分の泊まっているホテルのすぐ横にあるマリーさんとアレンさんの食堂を、まるで自分の家のように通い、毎日、彼らとふれあい、そこで働くクレラ(彼女のお兄さんとも)とも僕は親しくなった。見知らぬ外国の街で自分の居場所があることがほんとうに嬉しかった。

そういえば、この店の名前を知ったのは、通い始めてずっと後になってからだ。店名の書かれた看板もなく、よくあるように入り口のドアやウインドウにも書かれていなかった。僕にとっては「マリーさんとアレンさんの店」であり、その言葉で誰にでも通用していた。

「どうしてマリーさんの店で働くようになったの?」と、あるときクレラに聞いたときがあった。そのとき「この店の名前が好きだから。あとは夫婦がとてもいい人だったからよ」とクレラは言った。そのとき、「え、店の名前があったんだ?」と言うと、「店の名はgood timesよ。マグカップに書いてあるでしょ」と言った。

確かに店でコーヒーや紅茶に使われている業務用の白いマグカップの側面にはgood timesと赤い字で小さく書いてあった。まさかそれが店の名前とは思いもよらなかった。

「good timesって、懐かしいという意味よ。だから、この店が売っているのは、食べものであるけれども、それよりもgood times。懐かしいしあわせってこと。夫婦のこの考えというか、気持ちが私は好きなの。だからここで働きたいと思ったのよ。私のハニーマスタードソースはまさにgood timesなおいしさだし。店の看板はなくて、マグカップにだけ小さく書いてあるというのもかわいいわよね」とクレラはクスクスと笑った。

good times。なんてすてきな店の名前なんだろう。
この言葉を知っただけで、ニューヨークに来た甲斐があったと思った。
コーヒーをひと口飲んで「everything for good times」と僕は呟いた。

わたしの素

朝食をたっぷり食べるのでランチはいつも軽く済ませます。ほとんど外食をしないので、最近はリンゴ一個を切り分けるだけです。足りなければミックスナッツをつまむ。こんなちょっとで大丈夫?と思われがちだけど、このくらいがとても快適です。リンゴはよく噛むことで満足感があり、お腹にもやさしいのがいい。グレープフルーツのカットを加えるときもある。

 

「今日もていねいに。」の扉 アンバサダー

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