42番街の安ホテルをチェックアウトした。
真冬のニューヨークは息が真っ白になるくらいに寒かった。
空を見上げると雲ひとつない青空が気持ちよく拡がっていた。
行くあてもない不安な旅であるけれど、何も決まっていないことの気楽さと自由が嬉しかった。
路上のコーヒースタンドに立ち寄って、1ドルのコーヒーを買った。気さくなイタリア系の店主だった。
「このバッグを預かってもらえる場所はどこかにありませんか?」と聞くと、「どのくらい?」と咥えタバコをしながら聞き返してきた。
「たぶん半日か、一日です。これからホテルを探すので」と言うと、「2、3時間ならここで預かってあげるけれど、それならペンステーションで預ければいい」と教えてくれた。
「ペンステーション?」と聞き返すと「ペンシルベニア駅だよ」と笑って教えてくれた。
ニューヨークのコーヒーは少し薄いが、独特な香りと苦味がありおいしかった。
ペンステーションは31番街。ここから10ブロックなら歩けるだろう。僕はダッフルバッグを背負って7番街を下って歩いた。
ニューヨークを歩いて最初に感じたのは香水の匂いだ。
道行く人のほとんどがたっぷりと香水をかけているんじゃないかと思うくらい、どこに行っても香水の匂いだらけだ。サンフランシスコではひとつも感じなかったことのひとつだった。
そしてもうひとつは、オリーブオイルとスパイスが混ざった食欲をそそる香りが、街のところどころから匂ってくることだった。
人種のるつぼと呼ばれるニューヨーク。様々な国のおいしい料理の香りが街に満ちていた。
ペンステーションの荷物預かり所で6ドル払って荷物を預けた。
24時間預かってくれるそうだ。身軽になった僕は大きく背伸びをした。
今日からニューヨーク暮らしがはじまると思うと浮き浮きしてきた。
ペンステーションはニューヨークの主要な駅のひとつだ。
たくさんの人の往来があり、しかも皆、大人から子どもまで歩くスピードが早いことに驚いた。とにかくみんな急いでいるように見えて、目がまわりそうだった。
ポケットに手を入れると一枚のメモがあった。
今朝出会った老夫婦から、何か困ったことがあったらと渡された住所だった。
「51st, 8th & 9th Ave .Washington Jefferson Hotel #414」。
よく見るとホテルと書いてあることに気づいた。
あの老夫婦はほんとうにいい人達だった。もう一度会いたいと思った。
何もすることはないので散歩がてらそこがどんなホテルなのか行ってみるかと思い、僕は8番街を51丁目に向かって歩いた。
「ワチャバック!ワチャバック!」と聞き慣れない言葉を大声で叫びながら歩く人がいて、振り返ると、狭い歩道を大きな台車に荷物を載せて運ぶ人だった。
人々はその声を聞くと、慣れたようにすぐに道を空けて台車を先に行かせた。
なるほど、その言葉は「ウオッチ・ユア・バック(どいて、どいて)」という意味だとわかった。
ためしに僕も大きな声で「ワチャバック!」と叫んだら、みんなが道を空けてくれるのかなと思うと可笑しかった。僕がニューヨークで最初に覚えた新しい言葉は「ワチャバック!」だった。試すことはなかったけれど。
もうすぐ51丁目に着く頃、8番街沿いに小さな食材屋があり、そこからとてもおいしそうな匂いがした。
何を売っている店だろうと近づいてみると、生パスタやチーズ、オリーブオイルといったイタリア食材を扱う専門店だった。
椅子に座ったおばあさんが「今、焼いているところだからもう少し待ってて」と言った。
店の奥で若い女性が何かを作っているのが見えた。
「何を作っているんですか?」と聞くと、「絶品のパニーノだよ」とおばあさんは言った。
「あんたどこから来たの?」というので「サンフランシスコから」と答えると、「サンフランシスコよりニューヨークのパニーノのほうがおいしいよ」と言い、「早く買わないと無くなるよ」と言った。
「ひとつでいい?」とおばあさんが聞くので「はい、ひとつください」と僕は言った。お腹は空いていないけれど、このおいしそうな匂いを嗅いでいたら買わずにいられなかった。
パニーノはひとつ5ドルだった。おばあさんは「この人にひとつ。早く」と大声で叫んだ。
「今、焼けたところよ」と若い女性も大きな声で言い、紙皿に載ったパニーノを手渡された。「熱いから火傷しなようにね」とおばあさんは言った。
見ると、スライスした大きな茄子(オリーブオイルで焼かれた)と生ハム(パンチェッタ)、ペコリーノチーズ、アンチョビ、ルッコラ、トマトの薄切りが、トーストされたトスカーナパンではさまれていた。
僕が「おいしそうなパニーニ!」というと、「パニーニではなくパニーノ!」とおばあさんに言葉を直された。そうこうしているうちに人だかりができていて、パニーノを買うために十人ほどが並んでいた。
「そこに座って食べてもいいよ。なんか飲む?」とおばあさんは僕に言った。といっても、店の軒先にあるのは、折りたたみの椅子とピクニック用のテーブルだった。おばあさんからサンペリグリノを買い、あつあつのパニーノを頬張った。
「んー!!」。香ばしい茄子と生ハムとチーズ、アクセントになったアンチョビ、そしてフルーティーなオリーブオイルが実においしかった。こんなパニーニ、いや、おいしいパニーノは初めてだ。トスカーナパンの小麦の独特な風味も最高だ。おまけしてくれたアーティチョークのマリネもおいしかった。
おばあさんに「ありがとう。ほんとにおいしいです!」と言うと、「ヘルズ・キッチンにようこそ、ようこそ」と言って僕の背中を抱いた。
「ヘルズ・キッチン?」と言うと、「そうよ、このあたりはヘルズ・キッチン(地獄の台所)。ニューヨークいち、おいしいものしかないところ」と言って笑った。
食べ終わって店を出るときに「ワシントン・ジェファーソン・ホテルはどこですか?」とおばあさんに聞くと、「その角を曲がってすぐ。あんたそこに行くの?」と聞かれた。
「はい」と答えると、おばあさんはもう一度、「ヘルズ・キッチンにようこそ」と言って微笑んだ。
わたしの素
ベーグルのサンドイッチもおいしいけれど、
もうひとつニューヨークで食べた忘れられないサンドイッチがある。
イタリア発祥、通称「サブ」と呼ばれるサブマリンサンドイッチだ。
チーズ、ハム、パストラミ、マリネした野菜、ソーセージなどなど、
なんでも好きなものをチャバッタに、これでもかとサンドしていただきます。
イタリア人の友人から、チャバッタはおいしいお皿と教えられました。