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クレラと冷めたスープ

クレラと冷めたスープ

前回の続き

ある日の晩、ワシントンジェファーソンホテルのすぐ横にある、マリーさんとアレンさん夫婦が営む簡易食堂で夕食をとろうとすると、マリーさんが新しく入ったというクレラという女性の従業員を紹介してくれた。

クレラは小柄でちょっと影のある印象だった。大きくて丸い黒縁の眼鏡をかけ、地味な水色のブラウスを着ていて、洗い終わった皿をゆっくりとクロスで拭いていた。「ヤタローは私たちの大切な友だち」とマリーさんが言うと、下を向きながら、ていねいに僕の名前をつぶやいた。「よろしく」と手を出すと、細く長い指で僕の手を握って、少しだけ微笑んだ。「出身はどこですか?」と聞くと、「アップステート(ニューヨーク北部)です」と答えた。

ペンステーションに預けていた荷物を引取った後、僕は、マリーさんとアレンさんが暮らすワシントンジェファーソンホテルにチェックインをした。彼らの口利きで5階のシャワー共同の小さな部屋を1ヶ月600ドルという格安で借りることができた。窓からは、遠くのビルの屋上に掲げられた時計が見えた。ドアマンがいるようなホテルではないけれど、泊まっている人がほぼ顔見知りで、昔ながらの商人宿でアットホームな雰囲気がとてもよかった。51丁目とはいえ、ヘルズキッチンは川沿いに近いので治安はよいとは言えなかった。

ある朝早く、ホテルの入り口の階段に座ってコーヒーを飲んでいると、ハーモニカで吹くカーペンターズの「雨の日と月曜日は」のメロディが聞こえた。どこから聞こえるのだろうとまわりをうかがうと、マリーさんとアレンさんの店からだった。ハーモニカの音があまりにやさしくて美しくて、僕はそのメロディに釘付けになった。いつまでも聞いていたい気持ちになった。

ハーモニカの音が止み、店のドアから出てきたのは、右手にハーモニカを持ったクレラだった。着古したシャンブレーのシャツにベージュのコットンパンツで、髪をひとつに束ねてベースボールキャップを被っていた。

僕は階段の一番上に立ち、「クレラ、おはよう」と声をかけた。クレラはわざわざ僕の眼の前まで歩いてきて、「おはよう」と言った。

「ハーモニカとても上手ですね。ずっと聞いていたいくらいでした。カーペンターズは僕も大好きです」というと、クレラは照れくさそうに右手に持ったハーモニカをポケットにしまい、「2日間お休みをもらったので、今日はこれからアップステートに帰るんです」と言った。
僕は「アップステートって近いの?」と聞いた。「うん、まあ、車で2時間くらい。ニューヨークとはいえ田舎ですよ。でも自然豊かでとてもいいところ。兄が車で迎えに来てくれるんです」と言ってどこか遠くを見つめた。

「いいなあ、アップステートに一度行ってみたいなあ」と言うと、クレラは少し考えてから、「よかったら一緒に来ませんか。兄も喜ぶと思います」と言った。クレラの突然の誘いに少し戸惑ったが、疑いもなく誘ってくれたことが嬉しくて、「行きます」と答えた。あと1時間くらいで店の前に兄は来るので、それまでに車の中で食べる朝食を買いたいとクレラは言った。

「角を曲がったところにある小さな教会(Little Church Around the Corner)の前で売っているおいしいスープを買いましょう。兄が大好きなの」とクレラは言った。
「角を曲がったところにある小さな教会?それはどこ?」と言うと、「あら、あなた知らないの?それが教会の名前よ。正式な名前が他にあると思うけれど、ここではみんなその教会のことはそう呼んでいるの。場所はマディソン街と5番街の間、東29丁目」と言い、僕らはサブウェイの駅へと歩いた。「角を曲がったところにある小さな教会、って名前が好き」とクレラは言った。

教会はほんとうに小さかった。そして、通りを挟んだ歩道の少しへこんだところに、店とは言えないそれこそ小さなスタンドだけのスープ屋があった。スープ屋の女性とクレラは親しいようで、今日これからアップステートに帰ることをクレラは楽しそうに話した。
スープ屋の女性は僕を見て、「あなた日本人ね。今日はミソスープはないの。ごめんなさい」と言った。ここでは時たまミソスープも売るようで結構人気らしい。
「私は今日、野菜のサフランスープにする。兄はクラムチャウダー。あなたはどうする?どれもおいしいわよ」とクレラは言った。スープのメニューはその日によって3つあり、もうひとつはカリフラワーのポタージュで、僕はそれを選んだ。3つで18ドルを払い、持ち帰り用のふたのついたプラスチックのスープボウルで持ち帰った。

「ここのスープは冷めてもおいしいの」とクレラは微笑み、「私どちらかというと冷めたスープが好きなの。冷めたスープっておいしさをじっくり味わえるのよ。冷めているからこそ味の隅々までわかるというか、そのおいしさがね。小さい頃、母に冷める前に早く食べないさい、とよく叱られたけれど、私はいつもね、スープは特にだけど、冷めるまで待って、ゆっくり味わうのがほんとうに好き。冷めたスープを口の中に入れると、不思議とやさしい気持ちになるのよ。そのほうが絶対おいしいと思うし」と言った。

スープの入った紙袋を抱えた僕とクレラは並んで歩いた。帰り道クレラはポケットからハーモニカを出し、歩きながら「雨の日と月曜日は」を吹いた。店で初めて会ったときの印象とは違った彼女だった。

わたしの素

チャーハン好きなので、子どもの頃からいろいろなチャーハンを作っている。ごはんと卵だけというシンプルなチャーハンはとてもおいしい。けれどもツナとコーン缶を加えたチャーハンが、今のところ自分ベストです。おにぎりにしてもいいし、冷めてもおいしい。味つけの塩は最後に振るのがコツ。週一で作っている。

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