夜のニューヨークは雨が降っていた。
JFK空港に着いてすぐに、
電話ボックスに置いてある電話帳を開き、
安いホテルを探し、住所を手帳に書き写した。
一泊15ドルだった。
いつか映画で観た、
黄色いボディのタクシーに乗って、
マンハッタンに向かった。
助手席に座っていたドーベルマンが
振り向くように僕を見て、大きなあくびをした。
インド系のドライバーは僕が渡した住所を見て、
「あまり行きたくないエリアだな」と呟いて車を走らせた。
窓からの景色は激しい雨のせいで、
何一つニューヨークらしいものを見せることなく、
タクシーがマンハッタンに入ると、車はジャンプするように上下に大きく揺れた。
「この街は道のそこらじゅうに穴が開いているから」とドライバーは笑いながら言った。
「住所はここだ」と言い張ってドライバーは僕を降ろしたが、ホテルらしき建物はなかった。
ニューヨークの冷たい雨が僕の頬を濡らした。
街を見渡すと、いかがわしいネオンサインが輝き、
雨だというのに道行く人は多かった。
ニューヨークで最初に僕が訪れたのは42番街という、うつくしさもきらびやかさもない悲しさに包まれた街だった。
雨に濡れながら、大きなダッフルバッグを背負って、ホテルを探したが、ホテルなんてどこにもなく、
やっと見つけたのは、ホテル名が書かれた小さな看板がある雑居ビルだった。
一階には誰でも知るサンドイッチ屋があり、
その脇の狭い階段を上がると、
鉄格子がついた小さな受付があった。
なんとそこは連れ込み宿だった。
いまさら、あらたにホテルを探す気力もなく、
受付の中にいる黒人の女性に、一人で泊まると言うと笑われた。
シーツを買えというので15ドルを払い、鍵を受け取った。部屋は三階だった。廊下は消毒薬の匂いで充満していた。
部屋の内装は言うまでもなく質素で、
怪しい色のルームライトが置いてあった。
とにかくシャワーを浴びて寝てしまおうと思った。
ふうと息をついて時計を見ると深夜12時をまわっていた。
とにかく明日だ。明日の朝、これからのことを考えよう。
そう思って僕は眠りについた。
しかし、このホテルは12時を過ぎたあたりから、
人の出入りが多くなり、廊下を歩く音や話し声が気になり、またおそらく人間違いなのだが、何度かドアをノックされ、
そのたびに部屋の中から大きな声で、
「この部屋ではない!」と叫ばなければならなかった。
僕は眠るどころではなく朝を迎えることになった。
朝の7時にホテルから外に出ると、
すっかり雨は上がって、真っ青なきれいな空が広がっていた。
手で目を隠すくらいのまぶしい朝だった。
道を渡った角にあるグロサリーストアで、
コーヒーと目玉焼きとベーコンを挟んだベーグルを買い、店内の狭いカウンターでくつろいだ。
隣で白人の老いた夫婦が、
二枚のビスケットをカウンターに置いて、
一杯のコーヒーを交互に飲んでいた。
目が合ったので「おはようございます」と声をかけると、
「おはよう、今日はなんて美しい朝なんでしょう」
「あなたに幸運がありますように」と言っておばあさんが微笑んだ。
そして、「よかったら一ドル札を私たちにくれませんか。
なぜならあなたが食べているベーグルを私たちも食べたいの」と言った。
「もちろんです。一緒に朝食を食べましょう」。
持っているお札をポケットから出すと、
ちょうど一ドル札がなく十ドル札しかなかった。
「これで二人の朝食を買ってください」。
僕は十ドル札を渡した。
老夫婦はとても驚きながら十ドル札を受け取って、
互いに好きなものをはさんだベーグルを二人分注文した。
はじめて迎えたニューヨークの朝。
僕はひとりきりでなく、その日に出会ったばかりの人と楽しくおしゃべりし、
ベーグルのサンドイッチをおいしく食べた。
まさかニューヨークでのはじめての朝食を、
こんなふうに食べるなんて思ってもいなかった。
別れ際、老夫婦は僕に住所を書いたメモを渡して、
「なにか困ったことがあったらいつでも来なさい」と言った。
メモには「51st, 8th & 9th Ave .Washington Jefferson Hotel #414」と書いてあった。
よく晴れた朝、僕は笑うことができたことが嬉しかった。
ホテルでのことなんかどうでもよくなった。
口についたケチャップをなめるとニューヨークの味がした。
独りだけど寂しくはなかった。
わたしの素
サンフランシスコではドーナツとグラノーラのおいしさを知ったが、
ニューヨークのおいしさは、迷うことなくベーグルと言いたい。
お気に入りはアッパーウエストサイドの「H&H」のシナモンレーズン。
そして、51丁目の「エッサベーグル」で食べる、
シグネチャーになっているクリームチーズとサーモンといったサンドイッチだ。
ということで、僕はニューヨークで毎日ベーグルを食べていた。