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トルティージャの縁

パリの空気の扉

トルティージャの縁

高校3年の時、当時付き合っていた同い年のボーイフレンドにお弁当を作ったことが何度かあった。私は女子校で、彼は男子校だったから、登校途中に待ち合わせをして渡したり、一緒にピクニックに出かける日に作ったりもした。その彼に、ある日言われた。「明子の卵焼きは甘いんだね」。
私の母の作る厚焼き卵は、しっかり甘い。私は、その甘い卵焼きが大好きで、だから自分で作るようになってからも同じ味にしたいといつも思ったし、それこそがお弁当に入っている卵焼きの味だった。だから、彼の言ったことに、17歳の私は戸惑った。否定された感じもしたし、おいしくなかったのかな?とも思った。

「うん。甘い」と答えた私に、彼のお母さんは石川県(だったと思う)の出身で、彼の家の卵焼きは出汁巻き卵なのだと説明してくれた。半ば打ちひしがれながら、「好きじゃなかった?」と聞いた記憶がある。「いや、ただ、甘いタイプなんだって思った。おいしかったよ」。そう言われたところで、何かの機会に食べる甘みのほとんどないだし巻き卵に魅力を感じたことのなかった私は、きっと好きじゃなかったんだ……と思っていた。

そのほろ苦い出来事だけが理由ではないにしろ、卵料理を前にした時、塩味か甘味もあるかについての私のアンテナはかなり敏感に反応する。卵料理、と大きく括ったが、正確にいうなら、“黄身と白身を攪拌して作る卵料理”だ。例えば目玉焼きなら、塩胡椒を振るのもお醤油をかけるのも好きだし、甘みが欲しいから絶対にケチャップ!というわけじゃない。だけど、黄身と白身を攪拌してつくる、厚焼き卵、オムレツ、スクランブルエッグ、スフレなんかは、どうも、塩味だけだと距離を置きたくなる。子供の頃から、ケチャップライスを包むオムライスは好きだけれど、オムレツは好きじゃなかった。
例外で思いつくのは、茶碗蒸し。茶碗蒸しに甘みが欲しいとはもちろん思わないし、自分で作ったことは数回しかなくても、誰かが作ってくれたらうれしい、メニューにあったら頼みたい好きな料理だ。あとはキッシュ。でもあれは、香ばしい生地があるから食べたくなるのだろうと思う。仮に、生地がなくて卵液と具の部分だけを耐熱皿に注いで焼いたものが出されたら、おそらく私は「ちょっと苦手だな」と敬遠したくなる気がする。
と、ともかく、私の卵料理センサーは面倒臭い。

ところが、その曲者センサーの振り幅に変化が起きた。6、7年前になるだろうか。食べ始めたら止まらないスペイン風オムレツに出合ったのだ。
その店はランチタイムのみの営業で、ショーケースに惣菜を並べ、注文ごとにサンドイッチを作る。オープン当初からサンドイッチといえば定番の、ハム&バターのバゲットサンドが評判で、私はそれを目当てに行き始めた。同時に、ショーケースに並ぶどの惣菜にも惹かれ、毎度、何かしらを買って帰ることになったが、その存在感に目を奪われながらもすぐに買おうとしなかったのが、じゃがいも入りトルティージャだ。直径が30cm近くありそうな、円盤に焼かれた黄金色のトルティージャは人気で、いつも2枚、多いときには3枚がショーケースの上に並んでいた。誰もが買って行くのでは?と思える勢いで減っていき、店の外まで列が伸びるピークの時間帯を前に売り切れることが少なくない。小さな店内には4つだけスツールがあってイートインが可能で、開店早々に訪れたある日、ショーケースに背を向けるように座って食べながら、トルティージャを注文する声を立て続けに聞いて、その人気ぶりを目の当たりにした。それで、意を決し、一度食べてみることにしたのだった。

スライスしたじゃがいもがところどころミルフィーユ状になったそのトルティージャは、一気に「やめられない止まらない」食べ物の仲間入りを果たした。おいしかった。あらかじめ焼いているのか、ひょっとすると揚げているのか、焼き色のついたじゃがいもは油にコーティングされた味で、食欲を刺激した。どこにも姿は見当たらないけれど、なんとなく甲殻類の出汁とか、色づくまでじっくり炒めた玉ねぎとかが潜んでいるような旨みを感じる。どれか惣菜の下拵えをする際に出たエキスの溶け込んだ茹で汁か何かを、卵液に少し加えているのかもしれない。いずれにしても、これはみんなが買うわけだ、と納得した。

それから私は、すっかり、そのトルティージャを目当てに行くようになった。いっときは、ランチにお呼ばれをしたら、このトルティージャをおみやげにしていたくらいだ。塩味の卵料理にはあれほど興味がなかったのに、一体これはどういうわけだろうと思う。でも、おいしいのだ。いまでは、サンドイッチを買わずに、トルティージャを2切れ買って、それだけでごはんにしようかと毎度迷う。そして、定期的に食べたい衝動に襲われる。

 

わたしの素

12月の半ば、年末進行でいつもよりも前倒しのスケジュールがひと段落した日。無性に食べたくなった。でも、出先で、今から行ける!となったその時がすでにランチタイムのピークだったから、着く頃にはトルティージャはもうないことが確実に思われた。とはいえ、年内に行ける日は、もう他にない。それでともかく、向かうことにした。

着いたら14時を回っていた。この時間では惣菜は全て売り切れでサンドイッチの具も、ハムと、チーズが1〜2種類しかないだろうと思いながら店に入ったら、驚いたことにトルティージャが2切れだけ残っていた。

順番が来て、店主の女性と挨拶を交わした。
実は、数週間前の週末、ランチに出かけたビストロで偶然、会ったのだ。彼女の方は、私と友人が店に入ってきた時から「あ、2人ともうちのお客さんだ」とわかっていたらしい。デザートを食べ終える頃、ビストロのオーナー夫妻を交えて、馴染み客たちの間で自然に会話が始まったところで、私は、彼女が後ろに座っていたことに初めて気づいた。顔見知りだけれど、店の外で会ったことはなかったから、そこからしばらく話をしたのだった。

「こないだは楽しかったですね」「ね。本当に、パリは狭いから。今日は、もうポトフもないけれど、どうします?」「いや、トルティージャがあると思っていなかったから、うれしくて。2切れ、ください」「トルティージャ、その日の朝にでも電話してくれたら取っておくから、今度食べたい時にはよかったら電話して」
ポトフ、というのはこの店の看板商品の一つで、鶏のポトフを具にしたサンドイッチを指した。密かに私は、その鶏のポトフのサンドイッチとトルティージャを、パリ版親子丼的組み合わせと思っていて、セットで楽しむことがある。

思いがけず手に入れられたトルティージャの食べ納めをして、数日後、帰国した。

年が明けて、パリに戻って、新たな週の始まりに、鶏のポトフサンドとトルティージャを買いに訪れた。
「Bonne année ! (新年おめでとう)」
そう声を掛け合い、黄金色の卵焼きとサンドイッチを買って帰った。
やっぱり、やめられない止まらないおいしさだった。

2月に、グレーの空の日々が続くと思い出す一度だけ行ったことのあるシャモニーの山の景色。スキーしたいなぁ、あの時のチーズは本当においしかったなぁ、山のバターの口溶け感は半端なかったんだよなぁ。

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