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クレープの日

パリの空気の扉

クレープの日

たとえば、普段の会話の中で「ビタミン摂らないとだね」と出てきた場合、そのビタミンは、CかE、口内炎ならB6、貧血やめまいだとB12なんかが対象だったと思う。たまにビタミンAというのも聞くことがあったかもしれないけれど、食べ物から摂取しようとするのも、何かしらの症状が出て錠剤で摂った方がいいかもねとなるのも、私にとって馴染みのあるビタミンは、CとEとB群だった。パリでの生活が長くなるまでは。
この街では、状況が異なる。日常の会話で登場回数が多いのはDだ。断定できてしまうくらいに、ビタミンDが身近なのだ。私も数年前に血液検査をした際、結果を見たドクターから“ビタミンDが深刻に不足している”と処方箋を渡された。薬ではなく、どうにか食べ物で補うことはできないかと尋ねたら、その時の私の数値は食べ物でどうにかできる値ではなくて、そもそもビタミンDは食品から十分な量を摂取することはなかなか難しいと言われた。それよりも、ともかく太陽の日を浴びることが重要で、日焼け止めを塗っているとてきめんに生成する働きを抑えてしまうから、塗らないようにと忠告を受けた。私は日焼け止めを使わないし、太陽を避けているわけでもないのになぁ、薬で摂取しないといけないなんて……と少し不満に思いながら病院を後にした。
それを何人かの友人に話したら、全員が「あれ、出されるよね」と答えたので驚いた。私は、よっぽどのことがない限り病院に行こうとしないし、体調を崩しても、まずは睡眠をとって、胃を休ませて、食べ物のバランスを見直してどうにか立ち直ろうとするから、「とりあえず診察してもらって、お薬を出してもらう」という行動を取らない。それで、そんなにも日常的に処方されるものだとは知らなかったのだ。
日光を浴びることの必要性は、渡仏して間もない頃からよく耳にした。「9月から学校に入学しようとパリに来た人は、鬱になりやすい」という説は学生時代、誰かがメンタル面で難しい状況に陥ってしまうと、聞いたものだ。今は、私がパリ生活を始めた25年以上前に比べると秋が長くなった。でも以前は、9月に秋を感じたと思ったら、10月にはもう使い捨てカイロが必要なほど寒くなり、時を同じくして、空が一面雲に覆われ太陽が一向に姿を現さない季節に突入した。それは半年ほど続き、太陽に再会するのは3月。ひたすらグレーの空しか見えない日々で気分が落ち込み、精神的に困難をきたす。だから、太陽が出たら日を浴びないとだめなんだよ!と、言われた。
夏に、日本からパリへ旅行に来た人は、川岸や公園で日光浴をする人たちを見て「本当にこっちの人は日焼けするのが好きだよねぇ」と言うけれど、好き嫌いではなくて、あれは、体が欲しているのだと思う。コロナ禍ではそれがままならなくて、ビタミンDがみんな不足していたと聞いた時には、そりゃそうだろう、と納得した。

 

今は秋が長くなっただけではなく、冬に晴れ間がのぞく日も幾分増えたように思うけれど、それでも今年の1月は、ずっと雲に覆われていた。曇っているだけではなくて、毎日霧雨のような感じだった。夏は乾燥しているのに対し、パリの冬は湿度が高い。常に75%くらいある。それがさらに増して、いつ見ても地面が濡れた色をしていた。
そんな1月のある日、ガレット・デ・ロワを買いに行った。帰ってきて、丸くて大きなガレットを箱から出した時、輝く焼き色に、思わず、うわぁと声が出た。そして、その食欲をそそるガレットを目の前にしながら、私は、2月のクレープの日を思った。

2月2日は、聖燭祭と呼ばれるカトリックの祝日で、フランスではこの日にクレープを食べるのが伝統だ。その昔、教皇が、ローマに到着した巡礼者たちにクレープを配ったことに由来するらしい。それにまつわる話の一つとして、クレープの丸い形と黄金色が、太陽を思い起こさせ、寒くて暗い冬の後にやってくる春の訪れを連想させる、という謂(い)われがある。その話を知ってから、節分と立春がセットのように、2月2日はクレープの日だ!と思い出すと、もうすぐ春だ!に結びつき、太陽を待ちわびて黄金色のクレープが食べたくなる、という連鎖反応がいつしか起こるようになった。

わたしの素

小麦粉で作るクレープを食べることは滅多にない。そば粉の方が好きで、家で作る時はもちろん、外で食べる場合でも、デザートは、そば粉のガレットに有塩バターと砂糖の組み合わせをリクエストする。これは、その昔、そば粉のガレットの本場ブルターニュ地方にルーツのある友人と一緒にクレープを食べに行った時に、「ブルターニュだったら、そば粉のガレットを食べるのに無塩バターってことはあり得ないし、家で作るなら、一種類の生地(そば粉で作った生地)で、塩味からデザートまで通すから、ブルターニュの人がやっている店だったら、言えば普通に作ってくれる」と教えてくれて、その食べ方がすっかり気に入ったからだ。
だけど、2月に限っては、黄金色を思い浮かべて、小麦粉で作ったクレープを食べたくなる。
お店で食べるとなると、皿の上で折り畳んだ状態で出てくるから、円盤ではない。だから、太陽をかたどったものという象徴の姿からはすでに変形しているのだけれど、それでもやっぱりキラキラして、テーブルの上がぱぁっと明るくなる気がして、雲に覆い尽くされた空にそろそろ飽きてきた頃に、このデザートを食べる慣習を、いつもとてもうれしく思う。

2月に、グレーの空の日々が続くと思い出す一度だけ行ったことのあるシャモニーの山の景色。スキーしたいなぁ、あの時のチーズは本当においしかったなぁ、山のバターの口溶け感は半端なかったんだよなぁ。

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