8月の終わりから2週間ほど、日本に帰国していた。
パリに戻った翌朝、光の気配がどこにもないなか目が覚めた。スマホを手に取り天気アプリを開く。気温は11度、日の出は7時20分らしい。夜が明けるまではまだだいぶある。でも、もう一度眠れそうにはなかったから、起きることにした。歯をみがきながら、カーテンを開けて回る。向かいの建物には、まだ1軒も明かりが灯っていない。リビングの真ん中で、手付かずのまま開きっぱなしになっているスーツケース2つを前に立ち止まり、見下ろした。
ぼーっとした頭で、口をすすぎ、続いて顔を洗う。タオルで水気を拭き取っていると、少し気持ちが前向きになるのを感じた。化粧水を手のひらに取り、左右の頬にピタッと当てた。ぐんぐん染み込んでいく。よかった〜とうれしい気持ちで、もう一度、今度は顔全体に満遍なく手のひらの化粧水をあてがっていく。東京で荒れ放題だった肌が、どんどん調子を取り戻すのがわかる。ほっとした。と、次の瞬間、途轍もない淋しさに襲われた。いつものことだ。
日本に帰ってお風呂に入ったら、シャワーの水が当たったところを示すようにお腹から腿にかけて赤い斑点が夥しく広がったのは、フランス生活が13年を過ぎた頃だ。311の後だったからよく覚えている。洗面所で私の顔を見た妹に、「なんか、すんごい日に焼けてるね」と言われた。でも、日焼けではなかった。とても小さな赤いプチプチが無数に顔を埋めていて、痒かった。皮膚科に行くと、疲労性湿疹と診断された。湿疹は、数か月薬を服用して治ったけれど、それからというもの帰国してからの数日は、シャワーを浴びれば、体に赤い斑点が出る。
水が合う、という表現そのままに、いつしか私の体は生活の地であるパリの水に馴染み、故郷のそれには反応を起こすようになった。パリに戻り、肌がしっとりと落ち着いていくのを感じると、一瞬安堵した後、故郷に受け入れられなくなったような気になる。大袈裟かもしれない。時間が経てば、その淋しさが過ぎ去るのはわかっている。ただ、過ぎ去るまでの気の持ちようが、いつでもとても難しい。
ともかく、荷物を片付けよう。そして、日常を再開しよう。
外が明るくなったら、朝ごはんを食べよう。
今日、朝ごはんに食べたいものは決まっている。
日本滞在最終日に、映画を観に行った。
1930年から4代に渡り経営の続く、そして、1968年以来ミシュランの3つ星を維持するフランスのレストラン「トロワグロ」のドキュメンタリーだ。240分の長編で、私は、パリで見逃していた。ラッキーなことに、帰国のタイミングで日本でも上映されるのを知り、是が非でも観たかった。どうして4時間なのか、それ以上短くするには至らなかった内容が編まれているのだろうその4時間を体験したかったし、どんなふうに切り取ったのかにも、強く興味を持った。
4時間と捉える方が短く感じるか、それとも240分と思った方がいいか、などと考えていたのは、全くの杞憂に終わった。全然飽きず、観てよかった、と思った。居心地の悪さを覚えるような誇張をどこにも感じない映画だった。トロワグロには、映画の舞台となっている地に移転する前に、二度訪れたままで、新たな場所には行ったことがない。数年ぶりで、あの家族経営の店を再訪したくなった。家族の絆で築かれてきた店は、場所が変わっても、作り出す空気は変わらないのだなと感じると同時に、自分が訪れた時に感じた空気をそのまま映像の中にも見て取れるって一種の奇跡じゃないか、と思った。
映画の中で、最もシェフの口から発せられた素材名はリュバーブだったと思う。撮影期間がちょうど季節だったのだろう。エルダーフラワーを摘みに行くシーンもあったから、5月の終わりか6月にかけてだったのではないかと思う。私は何度聞いたところで“リュバーブ”が近いと思うけれど、字幕は“ルバーブ”になっていた。それで余計に意識がいった。 “ルバーブ”が登場するたびに、パリに戻ったら今年作ったリュバーブのジャムの瓶を開けよう、と思っていた。
わたしの素
シンプルなジャムトーストにするつもりで、冷凍していた全粒粉のパンを焼き温めた。
リュバーブは、生だと表皮に赤い部分があるが、火を通すと消えていき、灰色がかった白っぽい色になったり、黄土色のようなくすんだ色になったりする。
それが、ほんの少しの苺と合わせて煮込むと、途端に可愛らしい、柔らかな優しそうなピンクに仕上がり、味も一気に華やかになるのだけれど、天邪鬼な私は、どうもそれを素直に喜べない。もちろん、おいしい。だけど、一気に全部を持っていかれたような気分になって、“そんな可愛らしくならなくていいよ。瓶詰めになって棚に並べられる時には真ん中に置かれないかもしれない、端に回されるかもしれない。でも、パッと人目を引かないそのあなたの色にこそ、本当の美しさがあると思うよ”などと、リュバーブからしたら、とんだ見当違いのおせっかいを思うのだ。
特に、焼き色を帯びた全粒粉のパンに広げると、黄金色がかって、その美しさにうっとりする。加えて、繊維が生み出すとろみが最高だと思う。生で齧ると、思わず口から出したくなる酸っぱさと筋っぽさなのに、火にかければ変貌する。
帰国中に会った友人たちと過ごした時間を、ジャムトーストを咀嚼しながら振り返った。
この秋は、友人・知人が立て続けにパリにやってくる。この土地の旬の生産物はもちろん、少し前の季節を詰めた瓶も開けてごはんを共にすることが、いまから楽しみだ。