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苺の知らせ

パリの空気の扉

苺の知らせ

たしか7月の上旬だったと思う。

いつも花を買うマルシェの生花店で、ラベンダーとカシスの葉を包んでもらっている時に、苺の小さな鉢が目に入った。その店は、スタンド右手に切り花が並び、左手に植木や鉢植えの花を置いていて、二つのコーナーを分けるように真ん中が通路になっている。切り花の棚の裏手に作業台があって、その端が会計コーナーなので、支払いをしようと短いその通路に立ったら、青くてとても小さな実をつけた苺の鉢に気づいた。苗というには、もう少し育っているその苺を見て、「買おうかな」と思った。顔見知りの店のマダムに、その日を最後に夏のバカンスに入ると聞いていたからだ。ラベンダーはドライフラワーにできるし、カシスの葉はいい香りでだいぶ持つけれど、それでも次第に香りが薄れ、萎れていくのは確かだ。苺を、鉢で買ってみるのはいいかもしれない。

「この苺の鉢、これから実をつけるのですか?」と聞いたら「うまくいけば9月くらいまで実が生るわよ。必要なのはともかく太陽」とマダムが教えてくれた。7月に入っても肌寒く、その日も曇り空だった。「そっかぁ」と聞きながら、鉢に刺してある品種名の書かれた札を自分の方に向けると、Anaïs(アナイス)とあった。「これ、アナイスなんだ!私、大好きです、アナイス!」と声を上げたら「アナイス、おいしいわよね。今年だけじゃなくて、苺は毎年、季節が来るごとにちゃんと実をつけるし、いいんじゃない?」と言われて、買うことにした。

 アナイスは、この日に行ったのとは別のマルシェに出店する生産者が、露地栽培をしている苺で、食べると薔薇の香りがするように私は感じる。その芳しさは、一度味わうとどうにか手に入るうちにまた食べたいと思わせるもので、それで早起きしてマルシェに行くことになる。日によっては、9時半を過ぎた頃にはもう売り切れてしまうからだ。ハウス栽培ものではあのギュッと凝縮したような風味は、そうそう味わえない。

 いつもいつも楽しみにしているその苺を、今年は食べられなかった。その生産者はパリの南側の郊外に畑を持ち、露地栽培の苺が出るのはだいたい7月に入ってからなのだけれど、そのタイミングで今年は、夏休みに入ってしまった。オリンピック開会式に向けての交通規制が実施される前に、早々と。ただ、花屋のマダムが言ったように、9月になっても見かけることがあるから、もしかしたら、バカンス明けに食べられるかもしれない。食べられるといいなぁと思う。だって、本当に、食べていたら体がいい匂いになるんじゃないかって思うくらいに、おいしいのだ。

 

太陽が必要、と言われていた私のアナイスは、その言葉通り、気温が上がった7月末になって、ぽっと赤い実を二つつけた。うれしくて、もったいなくて、そのままにしておきたい気持ちが優って、「まだ大丈夫かな、もう少しいけるかな」と摘まずにいたら、ある日、ちょっと萎んだ気がした。それで慌てて、摘み取って食べた。太陽を浴びて、ぬるいまま。やっぱり、薔薇の香りがした。この認識の仕方は順序が逆なのかもしれないけれど、去年も思ったように今年も、苺ってバラ科なんだな、と思った。

 緑と白がグラデーションになった小粒の実がほかにもいくつかあったから、これも赤くなるかなぁと待っていたら、ちゃんと育って赤くなった。オリンピックも終わって、食べ歩いていたサンドイッチ屋さんもこぞって夏のバカンスに入り、気持ちが少し落ち着いたタイミングだった。「そろそろ、いい加減、ちゃんとした鉢に移し替えよう」と買ってきたままのプラスチックの鉢に手をかけて、ふと、「そういえば私、今年まだ、あれを食べていない!」と毎年必ず食べる苺のデザートを思い出した。

 

そのデザートは、ピスタチオ風味のサバイヨンソース(卵黄と砂糖を湯煎にかけながら泡立て、白ワインやリキュールなどを加えたもの)を、苺とバニラアイスにかけて大ぶりのグラスで出される。定期的に足を運ぶ大好きなビストロで、苺の季節が始まるとメニューに加わるデザートなのだが、今年は、春先から、長年通っているどのビストロにも行く時間を作れず、半年ほど足が遠のいたまま夏休みの時期になってしまった。ただ、そのデザートを出す店に限っては、ほぼ年中無休で8月も営業している。すぐに、行くことにした。 

815日を挟む週は、大多数のパリジャンがバカンスに出かけ、街が1年で最も静かになる数日だ。私はこの静かなパリにいるのがとても好きで、そして、そのタイミングのレストランも好きだ。誰もがのんびりしていて、穏やかな空気が流れている。それでも、ランチタイムのピークは外して店に着くと、お気に入りの席が空いていた。

「もし、今日この後、誰も予約をしていなかったら、あそこの席にしてもいいですか?」と聞くと、通してくれた。デザートメニューは料理の書かれたメニューとは別で、料理を食べ終わった後に出されるのだけれど、逃したくなくて最初から注文した。これまでに何度か食べそびれたことがあり、それからというもの、最初から頼むようになった。

前菜とメインは軽めの料理を選び、万全を期して迎えたデザート。スプーンを下まで差し込み、底に沈んでいるバニラアイスを少しすくって、その上に苺をのせ、ソースが満遍なく覆うようにして、口に運んだ。苺のジュースと混ざったアイスとピスタチオ風味のソースを味わってから、苺を噛んだら、酸っぱかった。「これなんだよなぁ、このバランスなんだよなぁ」と鼻から大きく息をはいた。

このデザートが好きすぎて、家で作ったことがある。前述の生産者から苺を買い、店のレシピ本を見ながら、作った。そうしたら、おいしいけれどちょっと違うなぁ……というものが出来上がったのだった。要因を考えて、理解に至ったのは、苺が甘いとダメなんだ、ということだった。あのおいしさ、おなかいっぱいでも思わず食べ切ってしまうやめられないあのおいしさは、酸味のある苺じゃないと成り立たない。

わたしの素

パリ近郊で収穫される露地栽培の苺の季節をいつも心待ちにしている。でも、その前に、苺祭りが開催されるフランス南西部の特産地、ドルドーニュの苺を使ったこのデザートを食べて、例年、「今年も夏が始まった」と思う。そして思い出すのは、パリで一人暮らしを始めた年の夏の兆しが見え始めた頃に、「フランスって、いまの季節に苺が出るんだよ!」と少し興奮して母に電話をしたことだ。果物も野菜も、本来生る季節を、当時の私はほとんど知らなかった。

そこからの自分の食生活を導いた、忘れることのない出来事。苺は、だから、私にとって、一つのシンボルだ。

今年はだいぶ遅れてしまったけれど……ちゃんと私の夏を迎えられた。

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