半年ぶりで、ロンドンに行った。
東京からやってきた友人と現地で集合し、よく歩きよく食べた。
食材は知っているものなのに、組み合わせ方に馴染みがなかったり、それ故にハッとするような味わいとの出合いもあったりで、大いに刺激を受けた4日間を過ごした。
パリに戻った翌朝、荷物を片付けながらその日々を思い返していたら、唐突に、グリーンサラダが食べたくなった。正直、とても意外だった。ロンドンでの食事を思い浮かべながらきっと食べたくなるのは、もっとほかの何かだろうと思っていたから。
4日間のうち、レストランで食事をしたのは4回だ。その4回のうち3回、メイン料理のサイドメニューとしてサラダを頼んだ。私の選ぶ店がたまたまそうだったのかもしれないのだけれど、ロンドンのレストランでは、サイドメニューが用意されていることが多い印象を受ける。パリではそんなに見かけないし、私は「温かい料理と一緒に、ちょこっと生野菜をつまめたらうれしいな」といつも望んでいるから、メニューにあれば、毎度頼んだ。
最初の店のメニューには、「ミックスリーフサラダ」と書いてあった。2軒目は、ただ、「サラダ」で、3軒目は「グリーンサラダ」だった。そのいずれもがおいしかった。葉野菜だけのサラダは、素材も、味付けも少しずつ違っていて、飽きのこないとてもシンプルな味わいだった。
1軒目のサラダは、春菊やハーブなどの香りが全体の風味の彩を成し、サイドというよりも一品料理として成り立つくらいに味の輪郭がはっきりしていた。マスタードの効いたドレッシングだったと思う。対して2軒目は、オリーブオイルとレモンと塩だけと思われる味付けで、野菜もレタスを数種合わせたのみの潔いものだった。ボリュームのある豚肉のローストを食べる合間にこのサラダを挟むと、水を飲む以上に、口の中が洗われる気がした。3軒目は、ベビーほうれん草のサラダだった。オリーブオイルベースのドレッシングは、少し削ったチーズが混ぜ込んであるような味がした。
そのサラダを食べながら思い出したことがあった。
そういえば、私は子どもの頃いつも不思議に思っていたのだ。
セットメニューについてくるサラダは、どうして、いつも、どこでも、レタスときゅうりにトマトなのだろうか? たまにセロリが加わっていることはあった。ベビーコーンが付いてくると、内心大喜びした。でもそれらの組み合わせが、抜群の相性だと感じたことはなかった。理由は、たいていの場合、おそらく野菜のパリッとした食感を保つために、ドレッシングはちょろっと回しかけてあるか食べる直前に自分でかける仕様で、サラダ全体に一体感がないように感じていたからだと思う。油と水を食べている、という気になることもしばしばだったけれど、それでも、生野菜を食べることで得られる口の中の潤いは好きで、小さなサラダの付いてくるセットメニューを好んで選んだ。
小学生の自分がすでにそんなふうに感じていた気もするし、大学生の頃にはほんの少しの違和感を、でもはっきりと、覚えていたことを思い出せる。私は、レタスよりもサラダ菜が好きだったし、サラダ菜じゃなかったらサニーレタスがよかった。なのにいつも、添え物のサラダで使われているのは、レタスなんだよなぁと。それに、ここにトマトは要らない気がするなぁとも思っていた。
ロンドンで、サイドメニューのグリーンサラダを食べながら、「こんなグリーンサラダなら退屈しないじゃん!」と思った。その瞬間に、「そうか、私は、グリーンサラダって退屈だと感じていたのか!」とかつての自分の中に毎度芽生えていた違和感のもとを理解した。
とはいえ、その気づきは、ロンドンでの最後の食事にもたらされたものだったから、その理解に至る前は、そこまでグリーンサラダに注目していたわけではなかった。なので、写真をちゃんと撮っていなかった。1軒目のミックスリーフサラダは、勢いを感じる盛り方で、「お!」と思ったからサラダだけを撮ったけれど、ほかの店では、メインの脇役として皿が切れている状態で写っている。
そんなわけで、意外だった。ロンドンからパリに戻って、最初に食べたくなったものがグリーンサラダだったことに。
帰った翌朝、気持ちはまだパリに戻りきっていなくて、朝ごはんは、ロンドンから持ち帰ったパイとチーズにするつもりでいた。そこに、グリーンサラダを作ることにした。冷蔵庫には、しなびたロメインレタスと、少し萎んだラディッシュに、半分ずつ残ったきゅうりとズッキーニがあった。オリーブオイルとレモンと塩だけで和えたら、スッキリするおいしさになった。タンパク質を加えずに、ここまでシンプルなサラダはそういえば作ったことがなかったかもしれない。
初めてイタリアを旅した大学2年の夏の終わりに、レストランでルッコラのサラダを注文したら、オリーブオイルの瓶と、レモンと、塩コショウが一緒に出てきて、自分たちで味付けをするよう示された。こんなのってありなの?と、自分の生活圏にはない価値観に初めて直面した時のことを思い出した。
しなびた野菜で作ったサラダがそこそこおいしかったことに気を良くして、また同じものを作ろうと、次の日のマルシェで、パリ郊外の野菜生産者から同じ野菜を買った。レタスは、違う種類になったけれど、それでも、鮮度のいい野菜で作ったらどれだけおいしくなるだろう?とワクワクした。
レタスをシャキッとしたままにしたかったから、ほかの野菜を先にドレッシングで軽く和えて、そこにレタスを加え、先に入れていた具材とほんの少しだけ馴染ませるようにして、皿に盛った。味付けは、オリーブオイルとレモンと塩。
「まあ美味しかった。でももっとおいしくできると思うのだよなぁ……」と不満が残った。ロンドンで食べたグリーンサラダはどれも、全体に味が行き渡っていながら、皿の底に汁気は残っていなかった。私の作ったサラダは、水気が出てしまったのだ。それが気に食わなかった。ドレッシングの量は多過ぎなかったと思う。だとしたら、全体に味が満遍なく行き渡るようにし過ぎたのかもしれない。あと、少し香りのあるものを入れたくて最後にコリアンダーの葉を加えたのが失敗だった。潔いグリーンサラダを作りたかったのに、潔くない、ちょっと媚びた感じがした。
現地で得た感覚を忘れないうちにトライしたくて、日をおかずもう一度、コリアンダーを加えずに作り直した。悪くはない。けれど、もう少しシャキッとさせたい。別の種類のレタスで試したくなった。
それで今度は、週末に別の生産者が出店する別のマルシェに行くと、なんと、レタス類の置かれている場所はもうほぼ空だった。朝ぐずぐずしていたら、すっかり出遅れたらしい。フランス人は、本当にレタス類が好きだと思う。春になって、レタス類が出てくると「うわぁ、サラダが出てきた!(フランスでは、レタス類をまとめて“サラダ”と呼ぶ。料理名のサラダと同じ綴りで同じ発音)」と声を上げるのを耳にする。
店主に、「もう一つも残ってない?」と聞いたら、背中越しに一つだけ残っているのを指差して、「あれだけ残ってるよ」と言われたので、それを買った。
考えた末、塩の量を減らして、その分チーズを削って加えることにした。赤たまねぎとフェンネルの薄切りを、チーズ入りドレッシングで和え、それでほかの野菜をざっくり混ぜ合わせて皿に盛った。
わたしの素
ロンドンのレストランで好きなことの一つに、真っ白な皿に料理が盛られることがある。カッコいいなぁと毎度惚れぼれする。ジーンズとTシャツだけで素敵な人のような憧れを抱く。自分にどこまでできるかなぁと気後れしながらもやってみた。垢抜けはしないけれど、まあ私はこれくらいかなぁと納得がいくくらいの盛り付けになった。
でも、前回の課題、食べ終えるまで水分が出ないような仕上げを施すことは、克服できた。味も、サイドメニューのサラダとして申し分ないものだった。今度、家でごはん会をするときに、作りたい。
それにしても、グリーンサラダ。ちっとも退屈しないじゃないか。