いつか会いたい、と思っていた人に、会えることになった。
「これ、私が参加するイベントの招待状! 会えたらうれしい。来られるようなら、ぜひ教えて」。
メッセージを送ってきたのは、当の本人だ。実際に会ったことは一度もなかったのだけれど、インスタグラムでのやり取りはちょくちょくしていたから、面識がない、という感覚は薄かった。
招待状を見ると、マレ地区に新しく出来たカフェが、オープニングレセプションを開催する旨が書かれていた。スペシャルゲストとして彼女の名が記されている。でも、それ以上に得られる情報は、見当たらない。彼女のインスタレーションがあるのかも、当日何かをするのかも、わからなかった。
最近、“フードアーティスト”という言葉をフランスのメディアで目にするようになった。彼女は、もっとも注目を集めるうちのひとりだ。インスタグラムにアップされる、どこかのイベントでセッティングした作品を見るたびに、いつか実際に見てみたい、と思っていた。そして、願わくば、食べてみたい。
だから、すぐに返事をした。
「招待状、すごくうれしい、ありがとう! 出席します。会えるの、楽しみにしてる!」
・・・
当日。
ものすごく気に入って買ってから、出番を窺っていた新しい靴をおろして出かけた。最寄り駅から会場への道は、足取りが弾んだ。
店に到着し入口で受付を済ませ、そんなに広くはない店内を見渡すと、奥の間に置かれたケーキが目に飛び込んできた。ケーキなのだけれどドレスのようで、見事に、空間に溶け込んでいる。その一体感にたじろいで、近づきたいのに、距離を置いたまま立ち止まった。
ふと、ケーキの脇に、彼女が立っていることに気づいた。それで、私は奥の間に足を踏み入れた。
「アンドレア?」と呼びかけ「アキコです」と名乗ると、彼女は、あぁ!!と声を上げた。
「来てくれてありがとう!」
「今日はどうもありがとう!」
お礼を言い合って、少し話をした。その間にも、どんどん人はやってきて、ドレスを着たかに見えるケーキを取り巻き、写真を撮ると去っていく。これはいつまで飾られるのだろう?と思っていたら、「17時になったら切るって(店のオーナーが)言ってたよ」とアンドレアが言うので、驚いて聞き返した。
「え? これ、今日、食べられるの?」
「うん。もう少し前に振る舞えたらいいのだけれど…まだだいぶ時間あるし、何か用事があるなら、アキコの分、取っておくように頼むよ。用事済ませてから戻ってきたら?」。
たしかに、少し時間があった。途中紹介されたアンドレアの友人は、17時に近くでアポイントがあるらしく、どうしようかと迷っている。でも、この機会を逃したら次にいつチャンスが来るのかわからない。
結局、その場で待つことにした。食べてみたいのはもちろんだが、切るところを見たかった。
その待ち時間のおかげで、最初、どう捉えたらよいものか戸惑いに近いものを覚えたケーキのインスタレーションに、気持ちが打ち解けていくのを感じた。入り口に近いところに、まるでオブジェのように飾られた3つのケーキを眺めながら、場を盛り上げる存在感の大きさに圧倒されつつ、こんな食べ物の在り方と表現があるのだなぁと、夢見心地だった。
いよいよケーキ入刀の時間がやってきた。
現れた断面は、シンプルな構造で、とても優しい色をしていた。
おいしかった。
生地はしっとりとしてわりと重みがあり、そこに塩がしっかりアクセントになっているちょっとモダンな印象のキャラメルクリームと、ピーカンナッツのクリーム、外側に塗られたもったり滑らかなメレンゲ。おかわりは?と聞かれたら、いるー!ってお皿を差し出しちゃうような、すっと懐に入り込んでくる、舌に馴染む味だった。
家に帰ってから、“あ〜あれはお店の味じゃなくて、すごく手作りの味だった”とおいしさのわけに気づいた。同時に、打ちのめされるくらいの独自の世界観とクリエーションから、“商品”という匂いのない、手作りの味にいきなりワープしたことにとてつもなく心を掴まれた、その余韻に、まだこのまましばらく浸かっていたいと思った。
・・・
翌日、アンドレアから「昨日は来てくれてありがとう。これから、一緒にいろいろレストランを試さないとだね!」とメッセージが届いた。それで、早速、ごはんを食べにいく約束をした。
レセプションの日のおしゃべりで、私たちは、同じ年にフランスにやってきたことがわかった。同じ年月をこの国で過ごしている。これまでのこと、主に、仕事を始めてからのことを、バスク地方のテイストを効かせたビストロ料理をシェアしながら、互いに話した。
「本当にずっと試行錯誤をしてきたけれど、いま、思いがけず、自分のやりたいことばかりができていて、すごーく幸せだなぁと思うし、このまま波に乗りたい」。
「私も、この1年でやっと方向が見えてきた。これから、この先の場所を見つけたい」。
次のごはんはどこに行こうか、と候補の店を挙げながら、私は「やっぱり、あそこに、一人で食事に出かけよう」とあるレストランのことを心の中で思っていた。
わたしの素
その店、Chez Georges(シェ・ジョルジュ)へは、久しく行っていない。最後に出かけたのはもう何年も前の渡仏記念日だ。3月28日。大学の卒業式の1週間後、留学が目的で日本を発った。どれだけ月日が経っても大事に思っている日で、誕生日と同じくらい、自分の人生を刻む日だと思う。
数か月前に、シェ・ジョルジュの写真を、アンドレアがインスタグラムにアップしたことがあった。その写真がとても印象的で、それからずっと、いつ行こうかとタイミングを見計らっていた。
今だ、と思った。渡仏記念日を待とうか頭をよぎったけれど、“いや、待たずに、行こう”と決めた。それで、直近で行ける日に、予約をした。
初めて、一人で出かけた。
入り口で名前を告げると、「あ、予約の電話を受けたのは私よ」と、予約帳に書かれた私の名前に線を引きながら、サービス係の女性が言った。「あなただったのですね」と受けると、彼女は笑顔を向けて「席は、ここか、もしくは奥の…」とカウンターの前にあるテーブルを指し示してから、店内の奥に進み、別の席を指した。そこは、デザートが並ぶ棚の正面だった。
迷わず、「こちらにします」と伝えた。
上着を脱いで席につきながら、こだまする人々の声に耳を傾けた。あぁこの響きの中に身を浸したかった、と思った。相変わらず、この店にBGMはかかっていない。
さて、何を食べよう。メニューを読みながら、考えた。前菜は、サラダを頼むことにした。メインは、思い出のある舌平目にするか、牛フィレ肉のステーキか、と思ったところで、仔牛のレバーがいいかもしれない、と思いついた。私は、かつてレバーが大嫌いだったのだ。好きになったのは、フランスに来て数年経ったある日、ビネガーで味付けした仔牛のレバーを食べてからだ。
注文を済ませると、視線を右に投げた。奥までずらっと隙間なくテーブルが連なっている。失礼にならない程度に控えた(つもりだ)けれど、できることなら、卓上を行き交う人々の手の動きをずっと見ていたかった。代わりに、耳で喧騒を楽しんだ。やっぱり、好きだなぁと思った。いろんな言語が混ざり合う中に、食事の動作によって生まれる音が重なり、時折厨房で鳴らされるベルが響く。空間全体で奏でられるこの感じが、好きなんだよなぁと思った。
ポーチドエッグとキリッと塩気の効いたベーコンをひと口ごとに葉に絡めて食べるサラダも、いまではすっかり好物になったレバーも、非の打ち所がないフリットも、この空間に漂う空気だからこその味わいで、噛むたびに心に染み込む栄養が体の隅々まで運ばれていくようだった。あ〜いい時間だぁと身体中が喜んでいるのが、食べ終わってからもしばらく続いていた。