なぜか、クリスマスが近づいてくるとロンドンに行きたくなる。
賑やかな街の様子、大皿で焼かれるパイ料理、いろんな人に送りたくなる瀟酒なクリスマスカード、スパイスの効いたクリスマススペシャルブレンドの紅茶……
パリも、街のそこかしこにクリスマスへの足音を感じる装飾が施され、心躍る。
けれど、秋になったら「そうだ 京都、行こう。」というコピーが脳裏に浮かぶかの如く、寒い季節が始まると、ロンドンに行きたくなるのだ。
それで、クリスマスを翌週に控えた週末に、2泊3日で出かけた。そのタイミングであれば、クリスマスシーズンに焼かれるお菓子「ミンスパイ」も楽しめる。
行く前から、最終日に食事をしたい店は決まっていた。
その店は、いつも白い皿に料理が盛られる。パリの飲食店では、縁に色や柄のついた皿が使われていることが多いように思う。私は、潔さを感じるほどシンプルに白い皿に料理を盛った、ロンドンで目にするプレゼンテーションが無性に恋しくなることがあって、今回の滞在では、白い皿を用いるレストランに行くことも目的の一つだった。
1日目、2日目と訪れたかった場所を巡り、ミンスパイも存分に食べ比べをして、迎えた最終日。
目的のレストラン、St. John Bread & Wine(セント・ジョン ブレッド&ワイン)へはホテルから徒歩で7〜8分。オンラインで見る限り空席はあるようだったけれど、もしいっぱいになってしまっていたら、14時過ぎに再度来れば空きが見つかるかを聞いてみるつもりだった。その間は、美術館で過ごそうと思っていた。
店に着いたのは、開店から15分を過ぎたところだった。一人なのですが…と伝えると、受付にいた女性はタブレットで予約状況をチェックした。「大丈夫、1テーブル、空いています。ただ、14時15分には次の予約が入っているので、それまでになりますがよろしいですか?」「全く問題ないです」。
「あちらになります」。
案内されたのは、店内奥の壁に沿って置かれた二人がけのテーブルだった。その片側に、バギーが置かれていた。それで、スタッフの女性が、右隣のテーブルのゲストに声をかけた。
店内の半分ほどは、テーブルを4〜5個くっつけて大テーブルに仕立てたものが2列組んであり、何かのお祝いの席のようだ。いちばん手前に座っていた女性がすぐに立ち上がり、バギーを移動させようとしたのだけれど、その長い大テーブル二つを囲う動線を見るに、私が案内されたテーブルの片方の椅子の側にバギーを置いておくことが、最も、行き来しやすそうだった。
「あ、ここに置いたままでいいですよ。私、一人ですし、ひと席しか使わないですから」
そう言うと、スタッフの女性と、バギーに手をかけていた女性が、同時に私を振り返った。「いいのですか?」「私は、全然気にならないです。どうぞこのままで」と答えたら、2人から、「ありがとう」と言われた。
席に座り、赤ちゃんはどこにいるのだろう?と、改めて隣の席とその向こうの大テーブルをさっと見回した。けれど、誰の腕にも抱かれている様子はない。そこで、そうか!赤ちゃんはバギーの中で眠っているのか、と理解した。思いもよらない相席の相手を得たことに、ふんわりとした気持ちになって、メニューに目を落とした。
滞在の最後に、パリでは目にしない組み合わせを、イギリスを感じるものを食べたかった。
オーダーしたのは、コールラビとブラウンシュリンプにチャービルの前菜、それに、牛ハツのグリル、レンズ豆添え、マスタードソースのメイン。飲み物は迷った結果、サイダー(シードル)を選んだ。
窓の方に顔を向けると、一人、白いパンツスーツ姿の女性が目に入った。さっき、バギーに手をかけた女性と、同じくらいの髪の長さで、同じように緩いハーフアップにしている。おそらく結婚をお祝いする会なのだろうと察した。2列に並んだ大テーブルは、とても和やかで、かつ華やかな雰囲気だった。
私の向かいのバギーは、静かだった。何度かお父さんらしき人が様子を見に来て、それでも全く気配を感じなかったのだけれど、ある瞬間、伸びをしたような仕草の後に、赤ちゃんの腕が、パタン、と椅子の背もたれ越しに現れた。それで私は初めて、赤ちゃんの小ささを目の当たりにした。
その手がたまに、ぴくん、と動いた。起きるかなぁ…と見つめていると、そのまま収まる。それが、ぴくん、の後に、パタパタ動き出した時に、収まるかな…と思いつつ、赤ちゃんのお母さんらしき、最初にバギーに手をかけた女性に知らせようと、右のテーブルの方を向いた。たぶん、声は出さないほうが良い。そう思って、彼女が私の視線に気づくと、アイコンタクトとジェスチャーで、赤ちゃんが少しぐずった動きをしていることを伝えた。
彼女は、赤ちゃんの顔は覗き込まず、バギーの後ろに手をかけて、一定の速度でしばらく揺すっていた。すると、赤ちゃんの動きは止み、また眠りに入ったようだった。
食事の間、何度かそんなやり取りを交わした。赤ちゃんは時折、泣き出す前兆かと思う勢いの、腕の動きを見せるものの見守っていると静まって、一度も泣かないどころか、声を発することもなく、ずっと静かだった。
口の中が潤うほどに瑞々しいコールラビのサラダと、パリではお目にかかることのない牛ハツの料理にすっかり満足して、デザートには、エクルズケーキというパイ菓子を注文した。カランツを詰めたその お菓子を10数年前に初めてこの店で買って食べた時、私はあまりの濃密な味に驚いた思い出がある。前日に会ったロンドン在住の友人にその話をしたら、「あれはチーズと一緒に食べるんだよね」と教えてくれた。それを裏付けるかのようにメニューには、エクルズケーキ発祥の地が属する地方のチーズと合わせて供されると書かれていた。本当は、入店時にコンポート皿にいくつも盛られたミンスパイの姿を確認して、食べたかったのだ。ところが、デザートとしては用意されていなかった。それが逆に好都合となった。ミンスパイはおみやげで買って帰ることにした。
楽しみにしていたロンドン滞在最後のひと皿は、予想外の厚みと大きさのチーズを伴って登場した。パイに添えられる程度かと思っていたら、ダブル主役の様相だ。ということは、同等のボリュームで口にすると、丁度良い塩梅なのかもしれない。それで、パイとチーズを同じくらいの大きさに切り、2つ一緒に口に運んだ。
「なにこれ、別物じゃん!」心の中で呟いた。これまでに何度か食べたエクルズケーキの印象は、そこになかった。鼻から息を吐き、口の中に広がる味をじっくり舌で観察した。パイのフィリングのギュッと詰まった甘みとチーズの塩気が、互いを緩和して、いい具合に混ざり合い一つの味になっていく。それが、紅茶とまたよくあった。カップに注いでからもしばらくの間、立ち続ける湯気を眺めて、なんて心地良い時間だろう、とぼんやりした。だからなのか、オーダーした紅茶の種類をすっかり忘れてしまった。
わたしの素
そろそろ次の予約の人がやってくる頃だと思い、会計をお願いした。同時に、ミンスパイをテイクアウトしたいと伝えると、なんとすでに売り切れ。それで代わりに、エクルズケーキを3つお土産に買うことにした。フランスの、カンタルやボーフォールみたいなハードチーズともきっとおいしく食べられるだろうと思って。
スタッフの女性が、レシートとエクルズケーキを入れた袋を手に戻って来たので、「現金でもお支払いできますか?」と訊いた。ロンドンは、ともかく現金で支払える場所がどんどん減っている。以前、換金したポンド紙幣が手元に残っており、それを使いたかった。
すると、思わぬ答えが返ってきた。「お代は、隣のテーブルの女性からすでにいただいています」。
驚いて、思わずフランス語で「Noooon」と声を上げると、その彼女がこちらへ、ありがとう、と言いながらやってきた。
「あなたのおかげで、私たちはゆったりと過ごすことができました。本当にありがとう」
と、再びお礼を言われた。
「私はパリに住んでいて、今夜のユーロスターで帰るので、これが今回のロンドン滞在での最後の食事でした。思いがけず、こんなに可愛らしい人と同席できて、とても嬉しかった」。そして「ご結婚のお祝いですか?」と訊ねたら
「そうです、私の妹(姉、かもしれない)の。どこかにいるはずなのだけれど……ちょっと席を外しているみたい」と隣の大テーブルを見回しながら言う彼女に、
「おめでとうございます」と、改めて、お祝いを伝えた。
なんてことだろう、と思いながら帰り支度をしに、化粧室へ向かった。
ドアを開けたら、目の前に、花嫁がいた。「おめでとうございます!それと、どうもありがとう」と声をかけると「どうもありがとうございます。姉(妹)から、とてもよくしていただいたと聞きました。本当に、どうもありがとう」。
再び席に戻り、上着とバッグを持ったところで、横の大テーブルに顔を向けたら、待ち構えていたかのように何人もの「ありがとう」が、繋がったテーブルの向こうからも重ねて降りかかってきた。少し照れくさくなりつつ「こちらこそ、ありがとうございます。改めて、おめでとうございます」と言い、赤ちゃんのお母さんの、Have a nice trip ! を受けて、入り口に向かった。
少し火照った頬に冷気を感じて歩きながら、この2時間を思った。あの場にいる人たちみんなのとても嬉しそうな表情と、それを受けてこんなにも温かい気持ちになったこのレストランでの時間と心の温度を、向かいの椅子の背もたれの向こうに見えていた小さな赤ちゃんの手とともに、これから幾度となく思い出すことになるだろう。本当に私は何もしていないのだけれどなぁ…と少しの戸惑いと一緒に。