第1回「おいしさって、なんだろう?」のつづき
アメリカのお話
オイシサノトビラ
松浦さんに連載を相談した際、ニューヨークのお話を選んでくださったのはどうしてですか?
松浦弥太郎
僕にとっての「おいしさ」って何だろうと考えた時に、ひとつは「懐かしさ」があるのです。
懐かしい食体験ってあるじゃないですか。僕はそこにすごくおいしさを感じる。10代とか20代前半の頃、旅をして暮らしていた頃の自分って、まだまだ若くて、非常に無垢な状態。その自分が知らない外国の街で出合う食の体験だったり、その食に関わる自分自身の喜びだったりがすごく大きかったし、人生に大きく影響を与えてくれました。
物質的な豊かさではなく、心の豊かさみたいなことに気づかせてくれました。自分の若かりし頃の、外国を旅していた頃の、おいしい記憶を思い出すため、大人になった自分が、あの頃の自分に気づきを与えてもらったあの体験を、今の自分のために思い出して書きたかったのです。
オイシサノトビラ
松浦さんの本「松浦弥太郎のきほん」の中に、松浦さんが「アメリカに行きたい」と言ったらお母さんが「アメリカは日本の何十倍もあるから、どこに行きたいかまず決めなさい」と言ったというところがありましたね。
松浦弥太郎
当時はインターネットもないし、誰かと海外の情報を共有する場もなかったし、 とにかく何もわからなかった時代だったんです。だから漠然とアメリカに行こうとしていて、広いということもわからない自分だったんです。でも、わからなかったからこそ、この目で確かめたかった。行くしかなかったっていうのがすごくありますよね。知らないことやわからないことに関しても、自分の欲求がすごくありましたね。
オイシサノトビラ
日本の食事の中にも様々な食体験があるかもしれませんが、いろいろな食べ物を食べるようになったのは、アメリカに行ってからですか?
松浦弥太郎
そうです。たとえばオリーブオイルは僕が子どもの頃はなくて、アメリカで初めて食べました。僕がアメリカへ行って一番最初にびっくりしたというか、自分が「あっ」と思ったのがドライトマトでした。 ドライトマトを使ったパスタを食べた時です。こんなにおいしいものがあるのかと。食べたことがないものがたくさんありました。ベーグルも食べたことがなかったし、バルサミコ酢もなかった。グラノーラもミネラルウォーターも。もっと言うと、オレンジジュースも初めて。 オレンジジュースは日本でも飲んだことがありましたが、アメリカで飲んだものと全然違っていて、今まで自分が飲んでたオレンジジュースはオレンジジュースじゃなかったんだと思いました。
オイシサノトビラ
アメリカではたくさんの初めてとの出合いがあったのですね。サンフランシスコからニューヨークに向かう時のことも書いていただきました。やはりニューヨークには強く惹かれるものがあったのでしょうか。
松浦弥太郎
サンフランシスコはすてきな文化もあるし、美しい街なんだけど、やっぱりアメリカの中では都会ではない。 当時の僕は若かったからいろんなこと知りたかったし、自分が知りたいもの・見たいもの・欲しいものは大概ニューヨークに行かないとないんだなって思いました。
ニューヨークは人種のるつぼじゃないですか。世界中の人が集まっている特殊な街。あらゆるカルチャーが混ざっていて、そういったところに僕は食体験だったり、ライフスタイルだったりを欲していたんじゃないかな。
本を読むように言ってみれば、サンフランシスコはワンストーリー。だけどニューヨークへ行くとストーリーが溢れるようだった。その違いがあったからやっぱり憧れてましたね。
オイシサノトビラ
松浦さんの食への興味はその頃に生まれたんですね。
松浦弥太郎
日本にいた時は、空腹を満たすものが食だと思っていた。 お腹いっぱいになればおいしいって思っちゃうっていうか。恥ずかしながら、味わうっていうよりも、とにかくお腹いっぱいになればいいっていう価値観。でもやっぱり異国の食文化に触れて、自分自身が自立して、一人で生きていくっていう考えにも直面する時に、食べるっていう行為が、日々のアクセントになっていたんです。「今日の朝食は何を食べよう」「お昼は何食べよう」「夜何食べようか」っていうのを、今までは誰かが考えてくれた。お母さんが考えてくれるとか、近所のお店に行くとか。
だけど、一人で海外にいると三食を自分で考えなければならない。もちろんそれは自分のお金で、自分でやりくりしなければいけないから、無駄遣いもできないし、食べたいものが食べられるわけでもないけれど、ひとり海外生活の中では、人と関わるとか、その食で一日を喜ぶとか、結構大きいですよ。どうでもいいことだったことが、どうでも良くなくなった。要するに、買い物するとか、お店に行くとか、 どこかで何かを食べるにしても、そこに食があることで、 ひとりじゃなくなるきっかけも生まれたりする。
「おいしいね」と人に話しかけたりとか、人が食べてるものを聞いてそれを食べるとか、 買い物をするにしても人との触れ合いがあったり。
食を大切にすることで、人と街とコミュニケーションをとることができる。そういった気づきがある。それまでは食べることが楽しいとは思いませんでしたが、海外へ行ったことで食べること自体がすごく楽しいということに気づきました。
オイシサノトビラ
お話を読んでいても「誰かと」っていうのが多いですね。
松浦弥太郎
そう。だから、海外で気づいたことは「何を食べるか」ではないんですよ。「どうやって食べるか」っていうことが大事だと気づいたんです。
食いしん坊のお話
オイシサノトビラ
どう食べるかは、「おいしさ」のためにもすごく大切なことだと思います。
少し話は変わりますが、松浦さんとお話ししていると「食いしん坊」という言葉をよく耳にします。「オイシサノトビラ」の中でも「食いしん坊のクローゼット」を連載していただいてますね。
松浦弥太郎
僕が19歳のころ、尊敬する年上の方から北大路魯山人が書いた「料理王国」という本を教えてもらったんです。「料理王国」は、僕にものすごく影響を与えている本。人生哲学だったり、食に関わる話だったり、ライフスタイルの美学にすごい影響を与えてくれた。その中で、器っていうのは料理の着物だと書かれていました。 どんなにおいしい料理でも、その器がその料理を生かすことができなければ台無しだっていう話が書いてある。僕はすごく共感しました。だから、ほんとにシンプルな料理でも、すごく素朴な料理でも、それに合う美しい器をちゃんと自分で選ぶことができたら、単なる料理がごちそうになる。それもおいしさなんです。
たとえば目玉焼きひとつでも、粗末な器だったらただの粗末な料理だけで終わってしまうけど、それに合ったすてきな美しい器で盛り付ければ、何てことない目玉焼きが、ごちそうの目玉焼きになる。
そういう、ある種の生活美学みたいなものって、暮らしにおける大切な工夫です。豊かでしあわせな暮らしのための、ちょっとしたコツだと思うんです。
これって本当にすべてに言えるんですよ。 要するにバランス感覚っていうか、人間に関してもいろんな関係性を持っていて、社会との関係とか、その場所の人の関係性とか、たとえば洋服とかもそういう関係性だけど、用を足せば何でもいいわけじゃないということを教わったんです。それ以降、今に至るまでの人生で、何を「どうやって食べるか」に繋がっています。
「オイシサノトビラ」では「食いしん坊のクローゼット」というタイトルで、 食と食べ物と器の関係性のストーリーを短いエッセイで書いていますが、これはただ単に食だけの話じゃなくて、ライフスタイルすべてに言えるしあわせの作り方とだと遠回しに伝わるとうれしいな。「食いしん坊」がタイトルだから、その言葉の通り、食べることが好きなんだっていう、だからこうするんですよっていうふうに読んでもらえたらうれしいですね。
つづく