

何年、何十回と作っていても、正解がわからない食べ物がある。
たとえばハンバーグ。私の作るハンバーグは、タネの段階でしっかり下味をつける。基本のひき肉、玉ねぎ、牛乳、パン粉に加えて、にんにく、生姜、塩コショウ、粒マスタード。これは以前にも書いた喫茶店のレシピを見よう見まねで再現したものなのだが、正確な分量までは盗めず、下味段階で味見することもできず、じゃあといって本家を確かめようにもくだんの喫茶店はとうに閉店している。結果、いつも勘で乗り切っているのだけれど、そんなことだから作るたびに微妙に味が違って、もはや正解がわからなくなってしまった。味見しながら作れない料理、けっこう苦手。
他にもわからないものはたくさんある。辛ラーメンのお湯の適正量(指示通りだとなんとなく味がぼやける)、お餅を飲み込むタイミング(これは一生わからない)、サーモスで作るハイボール(大抵濃くなる)、ういろう、すあま、かるかん(まだ途中感ある)。そして極めつけは、ピェンローだ。
ピェンローとは、中国広西省の田舎料理で、簡単に言ってしまえば白菜鍋のことだ。「扁炉」とも表記し、「扁」は「ささやかな」「素朴な」という意味らしいので、文字通り、中国の“素朴な鍋”となる。
多くの人が妹尾河童さんの著書でこの存在を知ったように、私もそのひとりだった。最初に食べたのは友人宅にお呼ばれしたときで、土鍋の蓋が開いた瞬間、「これが噂のピェンロー!」と感激したことを覚えている。妹尾河童さんは舞台美術家で、イラストエッセイ集『河童のスケッチブック』でこのピェンローが紹介されていることはあまりに有名だ。
けれど、読んで知っていることと、実際に舌で知ることとはわけが違った。
白菜と豚肉、鶏肉、しいたけ、春雨を、しいたけの戻し汁だけで煮込んだその料理に素材以外の味はなく、鍋自体の味付けは仕上げに回しかけるたっぷりの胡麻油のみ。ポイントは、各自器に取り分けてから粗塩と一味で好みの味に仕上げていくところで、それこそがピェンローの最大の醍醐味だ。
それは既に知っていた。でも実際やってみると、この味付け加減がなかなかに難しい。長く火にかけるほど、鍋の中の具材もスープも熟成されていくので、足す塩や一味の「適量」もその都度変わる。結果、会話の端々に「塩取って」「一味どこ?」のやりとりが挟まれ忙しなく、気づけば口数は減り、各々の味に全神経を注ぎ始めることになる。ピェンロー、その意に反してぜんぜん「素朴」じゃない。
そして一番の手強さは、「正解がわからない」点にある。
ひとことでピェンローと呼んでも、肝心な味付けは千差万別。だとすれば、人の数だけ、器の数だけピェンローは存在するのではないかという疑問がここで生まれる。そう思うと、自分が食べたのは果たして正しいピェンローだったのかと急に不安になってくる。いっそのこと、みんなに「ひとくちちょうだい」と言って回りたくなるのだが、それもなかなか切り出せず、結果、いまだに正解の味がわからないまま、冬になるとピェンローを食べ続けている。正解はわからないけど、ピェンローは抜群に旨い。
ちなみに今回、久しぶりに『河童のスケッチブック』を読み返してみたら、河童さんがこんなことを書いていて笑ってしまった。
〈この鍋は、各自で味付けして食べるので、他の人の味が気になる。そこでぼくは、「ちょっと食べさせて」と味見をさせてもらう。それぞれの好みがわかって面白いが、嫌われる。〉
わたしの素
干し野菜に目覚めた今年の冬は、いつにも増してピェンローをよく作った。
明日は晴れだとわかったら、どんこを一晩かけてゆっくり戻す。翌朝、白菜を干す。半日干したら取り込んで、芯の部分からしいたけの戻し汁で煮始める。沸いたら、しいたけ、豚肉と鶏肉の半量を鍋に入れ、胡麻油を1周回しかける。まずは弱火で40分。次に春雨、しいたけ、鶏肉と豚肉の残りを入れて、白菜の葉っぱの部分をのせて、再び煮込む。
食べる前に見た目を整えて、ダメ押しのごま油をもう1周して出来上がり。
塩はちょっと奮発してでもいいものを。七味じゃなくて一味がポイント。しっかり痺れる青山椒もよく合って、我が家のピェンローには欠かせない。