品川駅で突然声をかけられた。
振り返ると一人の女性が立っていて、声をかけてはみたものの、自分の行動に自分で驚いているような表情のまま雑踏に紛れていきそうになっていたので、私の方から腕を掴んでしまった。掴んだ腕が、パーカー越しでもわかるほどに細い。
彼女はコトゴトブックスでよく本を買ってくれているお客様で、お会いするのは、去年の夏、渋谷パルコでポップアップをしたとき以来だった。普段はオンラインで本の販売やイベントをしているから、自分で機会を作らない限りは、こんなふうに相手に見つけてもらうくらいしか、お客様と実際にお会いできることはない。
「ごめんなさい、驚かせちゃいましたよね」
申し訳なさそうに笑う彼女の視線が掴んだ腕に向けられていたから、その言葉が二重の意味を示していることにも察しがついたけれど、つい、気づかないふりをしてしまった。
病院の帰りなんだと彼女は教えてくれた。人混みは避けるように言われているけど今日は気分がよかったからと、いたずらっぽく笑ってみせた。本が好きで、でも本屋に行けない状況になっちゃったからオンラインが嬉しい。それなのに最近はカートに入れても入金できないことが多くてごめんなさいと謝られた。確かに彼女の名前を購入リストに見かけても、「支払い期限切れ」と表示されるものが目立つようになっていた。買ったときはよくても、コンビニまで支払いに出かける元気が続かないらしかった。
「でも、パルコで買った本は繰り返し読んでます」
その本のことは私もよく覚えていた。それは一人の男の魂が、〈この世〉と〈あの世〉を彷徨う仕掛け絵本で、物語の途中に挟まれている天使の絵を開いて眺めるたび、気持ちがしんと安らぐのだと彼女は言った。買ったときはこんなふうに何度も読む本になるとは思ってなかったとも続けた。一年前、あのとき彼女は目に見えて健康そのものだった。
渋谷までの車中を一緒に過ごして、私たちは別れた。
別れしな、「また会えるでしょうか」と彼女が言った。少し震えていたその声を、私は覚えていなければならない。そして──。
〈ハッピー、だけじゃない。ハッピー、アンド、サッド。それがきっと正しい。〉
平野紗季子さんのエッセイ集『ショートケーキは背中から』の一節が、ものをさしおくる人間が忘れてはならない本質を突く。
本書は、著者の平野紗季子さんが、2015年から2024年まで様々な媒体に執筆してきたエッセイを大幅に加筆修正したものに加えて、書き下ろし6作をまとめたエッセイ集だ。
どんなに食べてもやがて空腹がやってきてしまう納得のいかなさや、味や店が消えていくセンチメンタルすらエンタメとして消費してしまいそうな危機感。消えて戻ってこないもの、それでも忘れたくない、覚えていたい時間、記憶、そして、味。
人より必死に食べ、言葉を探し続けた平野さんだからこそ書けることばかりで、だから書かれてあるのも当然「おいしい」や「幸せ」だけじゃない。人がものを食べて生きることの喜びも悲しみもやりきれなさも、引き返せなさも光も影も、ぜんぶがあると読んでいて感じる。
そして、平野さんがディレクションする「ノー・レーズン・サンドイッチ」について綴る「お菓子屋の日々」は、私がコトゴトブックスを立ち上げてから今日までの日々をしみじみ思い出させてくれる一編でもあった。
いまでは大人気お菓子ブランドになった「ノー・レーズン・サンドイッチ」も、当初は、友だち数人と部活のような感覚で活動していた不定期販売のお菓子屋さんで、それを終わらせないために、続けていくために考えたのが「会社にする」という方法だったと平野さんは明かす。
人生では扱ったことのないような大金を銀行から借り入れて、西小山に物件を借りた2021年春のこと。せっかくやるのなら、と、自分たちで一から作った工房のこと。叶えた夢にセットでついてきた現実という重み。とりわけ印象的だったのは、新宿の伊勢丹で開催したポップアップにやってきてくれた一人の女の子とのエピソードだった。
会社の入社式を翌日に控えつつ、名古屋からポップアップに遊びに来てくれたというその女の子に、平野さんは自身の過去を重ねつつお菓子にできることを思う。
〈慣れない東京で、人混みをかき分けて、こんなにも心許ないのに、それでも前向きに頑張らなくちゃいけない空気の中で息をしているとしたら。ビジネスホテルの冷蔵庫で小さく冷えているお菓子ができることを思う。ベッドの上で開かれた菓子が、すこしの安心や、すこしでも背中を押す力になれていたのなら。〉
ものを売るときの文句には、ついポジティブな言葉を添えてしまいがちだけれど、本当はそれだけではないと、喜びにも悲しみにも寄り添えるものでありたいと平野さんは続ける。そしてその真実は、私の経験をも裏打ちする。
〈ハッピー、だけじゃない。ハッピー、アンド、サッド。それがきっと正しい。〉
「選んでくれてありがとうございます。読むの、楽しみです!」と笑顔で帰っていった彼女の、あの日から続く今日までの日々のすべてを私は知らない。でも、だからこそ、本が彼女のそばにあってくれてよかったとしみじみ思う。
わたしの素
よく晴れた土曜日の朝、ノー・レーズン・サンドイッチが届いた。
差出人をみると平野紗季子さんご本人からで、過日、『ショートケーキは背中から』のサイン本をコトゴトブックスのお客様用に作っていただいた、「そのお礼に」というではないか(お礼をするのはこちらの方なのに…!)。
箱を開けると「YES」「NO」と印があって、「YES」には定番のレーズンサンド、「NO」の側には季節限定「ざくざくアップルパイ」が入っている。こっくりしたクリームと、噛むたびじわっと広がる果実の酸味は、口のなかを幸せで満たしていく。
こんなにも幸せなのに、数時間後にはまた空腹がやってくるなんて残酷!
思いつつ、この瞬間を、味を、忘れないようにと必死で記憶した。
ノーレーズンサンドイッチの魔法にかけられている自分に気づいて、ちいさく笑った。吐く息が甘い。