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甘やかな秘密

甘やかな秘密

生まれてはじめて一人きりで大きな街まで行ったときのことを覚えている。
私の出身地は、静岡県のなかでもわりと名前の知れた市だったけれど、自宅があるのはそこから10キロほど北に行ったところに位置する田舎町だった。
市の中心から10キロも離れているといえばそれはもうはっきりとした田舎で、自宅の四方を囲んでいたのは田畑やビニルハウス。ご近所も数えるくらいしかなかったし、いちばん近くの自販機にジュースを買いに行くのだって、子どもの頃にはちょっとした冒険だった。

しかしながら、そんな町にも電車は走っていた。でもそれは大きな町と町とを繋ぎどこまでも伸びる鉄道ではなく、市街地の駅に連絡するための全線単線の鉄道だった。さらに最寄りの駅まで行くのにすら自宅からは自転車で30分もかかったから、電車に乗るなんていえばけっこうなイベンドだった。けれど。

ひとつの秘めごとが、私に一人きりで電車に乗るきっかけを与えた。

小学5年生の私は、ある男子に恋をしていた。バレンタインデーを数日後に控えた週末、私は、彼に渡すためのチョコレートを探しに、一人きりで市街地に赴いた。
母には嘘をついた。友達の家に遊びに行ってくると嘘をついて家を出た。名前を告げた友達の家と駅のある場所は真逆だったから、自転車でわざと回り道をした。それ以前、親や友達と一緒のときにはすんなりできたのに、一人きりで購入する切符は、小銭を投入口に差し込むのにも、目的地の駅名が光るボタンを押すのにも、いちいち手が震えた。電車は時刻通りにやってくるはずなのに、ホームに立っていると、それは永遠にやって来ないような不安に駆られた。

けれど電車に乗り込むと、興奮や不安は車中の雰囲気にたちまちかき消されてしまった。一車両だけの単線電車の車中には、乗客も数えるほどしかいなかったのに、そこには私の抱える秘めごと以上の色めき立った匂いが満ち満ちていて、私を圧倒した。

座席に座って乗客をこっそりと眺め見た。正面を向き、流れていく風景をむっつりと睨んでいるカップルがいた。しかしその手はしっかりと結ばれていた。目的の駅に着くまでに、どうか二人が再び会話を交わしますように。祈っていた。学生服を着た男子校生がいた。手の中には単語帳があった。試験を控えているんだろうか。何度も鏡を取り出して化粧直しを繰り返す女性がいた。それ以上口紅を重ねるのはどうかと思いますよ。思いつつ自分の唇に指で触れると、リップクリームの剥げたごわごわとした皮膚が人さし指の先を刺した。慌てて私もポーチをまさぐり、少し悩んで色つきリップを選んで取り出した。4、5分が経った頃、雨が降り出し同時に気持ちがざわめいた。けれど終着駅に着く頃には雨は上がっていて、雲の合間から光の筋が幾重にもなって射し、水たまりを光らせていた。あの雨は通り雨だったのか、それとも電車が雨を通り抜けていったのか。

そんな懐かしい記憶が蘇ってきたのは、江國香織著『彼女たちの場合は』を読んだからだった。

「これは家出ではないので心配しないでね。」
そんな書き置きを残して、礼那と逸佳は親に黙って「アメリカを見る」旅に出る。本作は、日本人の少女ふたりがアメリカを旅するロードノベルだ。
ふたりは従姉妹同士で、14歳と17歳。天真爛漫で英語が堪能な礼那に対して、逸佳は人見知りで引っ込み思案、英語にも自信がない。対照的なふたりではあるけれど、対照的であるからこそ、相手の短所を補うように慎重になれ、長所に引っ張られて大胆にもなれる、いい組み合わせだ。

ふたりはニューヨークからバスに乗って北東を目指す。
ボストン、マンチェスター、ポートランド、クリーヴランド、シカゴ、カンザスシティ…。ヒッチハイクや長距離バス、鉄道を乗り継いで旅は続く。着いた町で泊まる場所を探し、次の行き先を考える。「見る」ことだけが唯一の目的の気ままな旅だから、気が済むまで町を歩いたり、貨物列車の車両を数えたり、偶然出会ったおばあさんから犬の世話を頼まれたりしても平気なのだ。
「なにもかも自動的にふたりの秘密になっちゃう」
目にしたものや聞いたこと、肌や舌や鼻で感じたことを全身で受け止め、やきつけておこうとするふたりが眩しくてたまらない。

わたしの素

あの日、彼のために買ったチョコレートがどんなだったかはとうに忘れてしまったけれど、ラッピングが出来上がるのを待っている間、一気に緊張が解けたからか急激に空腹を感じて、レジ横にあったチョコレートを思わずレジに差し出していたことはやけに覚えている。
ハーシーズのキスチョコレートだ。

買ったそばから封を開け、ひとつを取り出した。
スライムみたいなかたちをしたそのチョコレートは、まだ銀紙に包まれているというのに強烈な甘い香りを放っていて、剥き方もわからぬまま夢中で剥いて、口に入れた。
こんな甘さのあることを、初めて知った。

「KISSES」と書かれた紙を引っ張ると自然に銀紙が剥がれる仕組みを理解したのは、帰りの電車のなかだった。すごいすごい、さすがは外国のお菓子だと感動し、キスチョコばかりに夢中になって、降りる駅を乗り過ごしたほどだった。

あの店はたぶんソニープラザだったんだろうといまなら分かる。当時の地元で、外国のお菓子を売っていた店はそれくらいしか思いつかない。年齢や経験を重ねるほど解像度は高くなっていくから、あの日の冒険をもっと仔細に振り返り、答え合わせすることだってできるだろう。
でも、そういう問題ではないのだ。
目にしたものや聞いたこと、肌や舌や鼻で感じたことをひとつのこらず覚えておきたかった片道30分の冒険。その感覚こそが宝物で、なにもかも自動的に私だけの秘密になったその一日に、説明をつけてしまうなんてもったいない。

お気に入りだったクッキークリーム味は最近すっかり見なくなってしまったけれど、いまでもキスチョコレートを見かけると、つい買ってしまう。

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