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十七音の世界

十七音の世界

郵便局からの帰り道、たまらなくなって「くしゅん」とくしゃみをして立ち止まったところ、向こうから歩いてきたご婦人に「どうも、こんにちは」と挨拶をされてしまいました。
くしゅん、の瞬間前かがみになった私の姿が、お辞儀をしているように見えたのでしょう。マスクもしていたから、口の動きも読めなかったんだと思います(私は重度の花粉症)。

でもきっと動揺したのは彼女も同じで(だって見ず知らずの人が急に目の前で立ち止まってお辞儀をしてきたら、なんだなんだと思いますよね)、けれどその不可解さを表には出さず、挨拶という行為で応答してくれたのです。
彼女のそのおおらかさと、春の気候があいまって思い出したのは、〈控えめな春のお辞儀を拝見す〉という俳句でした。

これは長嶋有さんの第一句集『春のお辞儀』に収録されている一句なのですが、この句をはじめて読んだときに広がった心象風景は、また別のものでした。
出会いと別れが重なる春、「はじめまして」の挨拶には気恥ずかしさとよそよそしさが漂うものだし、いっぽう別れには、これを最後と思いたくない名残惜しさがついてまわるもの。
その特有の空気感を、「控えめな」という言葉で捉える絶妙さと、「拝見す」という第三者の視点を加えることで立ち上がる物語性。
たった十七音の言葉の連なりによって、自分がこれまで繰り返してきた出会いと別れのひとつひとつが色づいて想起せられたことを覚えています。

けれど今回、「春のくしゃみ」を「春のお辞儀」と見誤られたことによって、この句の先に広がる景色がまたひとつ、豊かになった。きっとこんな偶然がなかったら、いよいよ到来したスギ花粉にたいする疎ましさで気持ちがくさくさしてしまっていただろうし、見ず知らずの人とだって、出会いがしらで挨拶を交わすことの、なんの不思議もないことに、思い至れなかったと思うのです。
言葉とともに生きることの幸福を、しみじみ感じます。


そして俳句のいちばん楽しいのは、いまこの瞬間はあの十七音そのものだと思えたときです。
先に句があって、あとから実感が重なることもあれば、言葉を与えずやり過ごしてしまったできごとを、句がすくい上げてくれることもある。
とりわけ長嶋さんのつくる俳句は、日常の些細なおかしみをあまさず拾ってピカピカに磨いて、「ほら、こんなに光るじゃん!」と教えてくれるものが多いのだから、たまりません。

手押しポンプの影かっこいい夏休み
それは辛い獅子唐なんかうれしそうに
蜘蛛というより蜘蛛の都合を見ておりぬ
昼寝してなんだか動く紙コップ
レシートの丸みに秋の日付かな
バス乗り場からみるバス乗り場暮の秋
分度器もち測るものなし初時雨
なめこ汁なめこが熱し機嫌悪し
目薬の効き過ぎ効き過ぎ寂しかる

わざわざ言い残す必要なんてないと思っていたけど、そうではなく 、自分には、その些細な気づきを言葉で輝かせるセンスと技量がなかっただけ。そんなことにも同時に気づいて 打ちひしがれてしまうけれど、だからこそこの句集が手元にあるということは、とても頼もしいのです。

(ここにも見つけた、控えめな春のお辞儀)

わたしの素

この冬どれだけ食卓に登場したかわからない蒸籠蒸しにも、春の顔ぶれが混じるようになってきました。

白菜は、春キャベツに。蕪は菜の花に。旬のバトンタッチがされつつあるけれど、でも、レンコンや長芋はまだ居残っていて、冬の野菜と春の野菜がぎゅぎゅっと身を寄せ合っている蒸籠のなかは、まるでいまの季節のよう。

俳句は一句一季語だから、「ここで一句!」と言われても困り果ててしまうけれど、俳句の楽しいことのもうひとつに、言葉から季節を感じられることがあります。

強い風が吹いて、また寒くなって、繰り返して、春になっていきますね。

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