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領収書の観察

領収書の観察

先日、友だちとご飯を食べに行ったときのこと。
すっかりお腹も満たされて、次行く場所へと気も急いていた私たちは、お会計をお願いすべく店員さんを呼びました。
その日はお互い現金をあまり持ち合わせていなかったこともあり、クレジットカードでの割り勘が可能かどうかを尋ねてみたところ、それまで完璧な接客パフォーマンスを見せてくれていた店員さん、なぜかたちまち曇り顔。どうしたものかと眉間に力を入れながら、伝票を見つめているではありませんか。
「カードで割り勘するの、やっぱりお手間おかけしてしまいますか?」と尋ねると、もごもごしつつもそうではない、と。
そして、「大変申し上げにくいのですが……」と前置きしつつ、こう言うのです。

「実は……、今回のお会計ですと、どちらかお一人様のご負担が大きくなってしまうのですが……」

ん?どういうこと?
ふたりとも同じコース料理を選び、1杯ずつドリンクを追加注文したのだから、きっちりふたつに割れるはず。なのに、なぜ? 
突然出されたなぞなぞに混乱しつつ、友だちの方を見やったその瞬間。
「私に多く付けといてくださいっ!」
彼女は高らかに声を張り、空を切るかのごとくカードを差し出しているではありませんか。(その動きたるや、店員さんが続けて言おうとした「どうなさいますか?」をかき消すほどの俊敏さ)

スマート! なんてカッコいい私の友よ!!
一瞥もくれず、間髪入れずに自分が多く負担すると言い放った彼女にたいして、憧れにも似た感情を抱きつつ、「ありがとう」と礼を言うと、「いいのいいの、気にしないで」と聖母の微笑みでトドメを刺してくる(ソークール!)
それにしても、どちらか一方の負担が大きくなってしまうって、やっぱりどういうことだったんだろう。なんだかめちゃくちゃオオゴトっぽい感じで聞かれたけど、大丈夫かな……。
どうにも落ち着かない気持ちでお会計が済むのを待っていたのですが、ややあって、それぞれに手渡された領収書を見比べたところ、あまりにも明確で、しかし私たちがたどり着けなかった真実が、明らかにされたのでした。

差額、一円。

そう、真実はとてもシンプルだったのです。
奇数を2で割ったら余りは1。つまり、「どちらかお一人様のご負担が大きくなってしまう」金額は一円以外ありえなかったというわけ。

単純な、余りに単純な割り算にようやく気づいた私たちはしばし言葉を失い、渋谷の雑居ビル10階の、ドアをくぐると瀟洒な空間が広がる和食屋さんの一角に気まずい沈黙が流れました。そしてその沈黙を切り裂くように、脳内でリフレインする友だちの声。
「私に多く付けといてください!」(カードをシュッ!)「いいのいいの、気にしないで」(聖母のような微笑み)……。ヤバい、笑ってしまう!
友だちを見ると彼女も全てを理解したようで、赤面しながら「なんか、ごめんね。1円くらいでドヤっとしちゃって…」と詫びてくるのだから、とうとう腹筋も崩壊。これぞ緊張の緩和。
周囲の迷惑にならないようにと笑いを噛み殺しながらなんとか店を出た途端、ふたりして、爆笑してしまったのでした。

──奇数を2で割ったら余りは1。
かくして私たちは、このような知見を得たのですが、それにしてもこうして日常をつぶさに観察することとは、無意識を意識に変えることだよなあとしみじみ思い、そうして思い出したのは、『観察の練習』という一冊です。

『観察の練習』とはその名の通り、「観察」という行為を「練習」する目的で書かれた作品で、著者の菅俊一さんは、人間の知覚能力に基づいた新しい表現の在り方を研究し、映像や展示、文章でそれを表現している方でもあります。

身のまわりの「おや?」を拾い上げ、なぜそう思ったのかという「違和感」を考察していくという本書は、構成にも工夫が施されていて、まず写真があって、ページをめくると見開きで著者の考察が綴られるという展開。
文章はあくまでも著者が捉えた違和感なので、読み手とマッチすることもあれば、そんなふうには全く思わなかった!という新鮮な驚きを得ることもあって、共感と発見の連続を楽しめます。

「平らに見える歩道の正体」、「整列されたゴミ」、「ソースの描く軌跡」、「シワの取られた千円札」など、どこにでもある風景を切り取った一枚の写真に、どんなドラマを想像するか。どんな違和感を見つけて、それをどう解釈するか。日々の生活の中で感じた小さな違和感を見過ごさないことの大切さや、それを「なんとなく」で済まさず言葉にして知覚すれば、世界はいかようにも面白くなるということを、本書は教えてくれるのです。

手始めに、上に載せた領収書の写真を誰かに見せてみてください。そしてここになにを「観察」するか、尋ねてみてください。気の合う友だちでも、観察結果がかくも異なるのかと、ハッとすると思いますよ。

わたしの素

冒頭で綴った友だちとは、もう20年来の仲なので、今回の出来事以外にもたくさんの「おかしみ」を共有してきたのですが、お互い考察好きというか、出来事を反芻してあーだこーだと考えるのが好きなタチというか、人によっては「めんどくさ!」と思われてしまう思弁にもとことん付き合って、私たちなりの正義や真実を見出したり、時には、時間のムダだったねと笑い合えたりするのが、なにより嬉しい関係です。

そんな私たちがここ数年ハマっているのが、お鮨屋さんめぐり。
まず彼女がカウンター鮨に魅了され、私がそれに続いたというのが正確なのですが、カウンターを隔てた「あちら」で鮨を握る大将と、それを食する「こちら」側の私たちも、互いに「観察」しあう関係を結び、食事の時間を作り上げているのだなあと気づいてからは、ますますお鮨時間が楽しくなるばかりです。
握るものと食べるものとの絶妙な間合いによって成立する、先付けからお椀までの、コース一本勝負。
食べてる間は大将の所作や味に集中しているので、おしゃべりもままならないのですが、食べ終わってから、ふたりでおこなう観察結果報告会の、また楽しいことよ。

ところでこの海老ですが、大将はなぜ、盛り台のこの位置に、この握りを置いたのだと思いますか?
観察の練習の、はじまりはじまり。

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