せいろというバベルの塔
せいろの蓋を開けるとき、少しだけ息を止める。蓋を持ち上げると、ふわっと白い湯気が立ちのぼる。そして湯気の向こうに現れる野菜や肉、魚たち。ブロッコリーの緑、にんじんのオレンジ、鶏のささみの乳白色。食べものたちは皆、蒸されることで鮮やかな色を見せる。
せいろは何段にも重ねることができる。下から湯気を送り、ひとつの鍋の上に、もうひとつ、その上にまたひとつと、竹の籠を積んでいく。週に一度は私の台所にそびえ立つ塔。専用の小鍋に水を張り、最初の段には鶏肉、にんじん、ごぼうなど。さらに一段、長芋やきのこなど。しっかり火を通したいものから順に積み上げていく。すべて詰めたら蓋をして火をつける。沸騰してから二十分ほど。本など読んだりして過ごす。
「食パンも蒸すと、おいしくなるんだよ」
私にせいろをプレゼントしてくれた人が、そう言った。一緒に何でもない厚切りの食パンを蒸したところ、むちっと変化したその食感に私はいたく感動したのだった。そのころから
「蒸せばなんでも、おいしくなる」
そんな考えを持つようになってしまった。「なんでもかんでも蒸せば良いってもんじゃないのよ」とその人は言うかもしれないが、なかなかの頻度で今の私は蒸している。軽く下味をつけて蒸すこともあれば、さまざまな薬味やたれを用意することもあるし、シンプルに塩だけぱらりと振って食べることもある。もう使い始めて五年ほどが経つ。ずっと大切に使っていて、壊れたり古びることもなく、自然素材と蒸気の仕組みに感嘆しつつ、このままいけば私はきっと死ぬまで使うのだろう。
台所に現れた小さな塔を見ながら、ふと旧約聖書の『創世記』に登場するバベルの塔のことが頭に浮かんだ。人々はひとつの場所に集まり、同じ言葉を話していた。彼らはレンガを焼き、天まで届く塔をつくり、自分たちの名を知らしめようと考えた。神様はそんな彼らを見て、言葉を分かち、互いに通じないものにした。建設は止まり、人々は世界各地へと散っていった。神様は塔を破壊するのではなく、彼らの言葉を奪った。
もしもその塔をレンガではなく、竹籠のせいろで積み上げたなら。レンガは積み重なるほど、重く、強く、閉じていく。竹は違う。しなり、呼吸し、隙間を残す。せいろは不思議な道具だ。何かを閉じ込めるための器ではない。底にも側面にも隙間があり、そこを蒸気が通り抜ける。米や野菜や肉を何段にも重ね、下から立ち上がる湯気が食材に火を通し、おいしさを引き出してくれる。
一段、また一段と重ねていく。その頂上にいるのは神様ではない。湯気であり、食べものの匂いであり、誰かを食卓へ呼ぶ気配である。バベルの塔では、言葉が通じなくなった人々が散らばっていった。せいろの塔では、言葉の代わりに湯気が立ちのぼる。国境もなく、翻訳もいらない。「腹が減った」ということだけは、たぶん誰にでもわかる。
その人はせいろと一緒に、私に新しい目をくれた人でもあった。
ずっと地下の薄暗く煙たいスタジオにこもって音楽だけに夢中になって過ごしていた自分が、音楽をやめ、蝉のように地上に出た。そしてその目をもらって初めて見えるようになったものたち。
磨りガラスの向こう側、波打つ緑の草原、冬の枯れすすき、織られた布の肌理、旅先で拾う小石、砂が描く模様、古いホテルの階段の手すりの曲線。
それまで何ひとつ気づかなかった、ささやかに美しいものやこと。この世界に散りばめられ、何気ない日常に隠されたひかりを見るための、目をくれた人だった。
今夜も私の台所には、せいろの塔が積み上げられていく。いくつもの思いを重ねながら、塔はどこまでも高くなっていく。湯気の向こうには、まだ見たことのない景色がある。そんな気がして、私は少し息を止め、そっと蓋を開ける。

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