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ヴェルサイユからの誘い

パリの空気の扉

ヴェルサイユからの誘い

春の訪れを感じ始めた頃、「パリじゃないところに引っ越そうかと思う」と言っていた友人が、いよいよ引っ越したことを、3週間ほど前に知った。
「ヴェルサイユに引っ越したの?」
「そう!まだ家は片付いていないけど、いつでも遊びに来て。お気に入りの場所を少しずつ見つけているから、案内するよ!」
そう言って彼女は、街に2か所出るマルシェの情報を送ってきた。
一つは、規模が大きく、回廊のように常設市場の建物が囲う広場に、火・金・日曜の週に3日立つ。もう一つは、こぢんまりとして出店数は少ないけれど、チャーミング。教会の前の広場で、木曜と土曜に開催される。

大きい方のマルシェは、何度か駆け足で見たことがあった。駆け足だったのは、いつも、ヴェルサイユ宮殿を訪れるその道すがらだったからだ。毎度、早く行かないと入場券を買うのに長時間並ぶことになる!と先を急いだ。たしか、初めてのパリ旅行で、初めて目にしたマルシェが、このヴェルサイユの市だったと思う。でも、いまとなってはもう記憶が曖昧だ。

予定を立ててまた連絡する!と返事をし、毎日天気予報をチェックしながら行けそうな日を探っていたら、互いのスケジュールがうまく噛み合ったのはオリンピックの開会式を1週間後に控えた週末だった。

その日から、パリの公共交通機関の運賃は、オリンピック特別料金になることが5月に公表されていた。パラリンピックが閉幕となる9月上旬まで通常の料金設定ではなくなるので前もって買っておくように、という通告まであったり、ほぼ同じタイミングで、開会のセレモニーで使われる場所周辺は通行禁止になり、指定エリアに出入りする予定のある人(住民含む)は予めQRコードの申請が必要だったりで、一体どんな雰囲気になるのだろう?と思っていた、その日だ。
実際、5月半ばあたりから“こんなふうに街がどんどんオリンピックに向かっていくのだなぁ”と感じていたのだが、7月に入ってから目の当たりにしたのは、少し予想と違って、パリの人たちの脱出だった。街から人がいなくなった。7月1週目に学校が夏休みに入るや、途端に、地下鉄が驚くほど空いた。7月14日の革命記念日が過ぎてからは、例年最もバカンス色が濃くなる8月15日の週くらいに、路上駐車している車の数が減った。

そんな中、私は、郊外線に乗り、ヴェルサイユへ向かった。

自宅から徒歩10分ほどのところに郊外線の駅があり、そこから1本で行ける。そして、終点のヴェルサイユ・シャトー・リヴ・ゴーシュ駅で降りればいい。うっかり乗り過ごすこともないから、安心して本を読み始めたのだけれど、パリを出てすぐに変わり始めた窓の外の景色に目を奪われた。普段、全く乗ることのない路線で、新鮮だった。

到着し、待ち合わせた友人が自転車で来ているのを見て「自転車、いいね」と言うと、「アキコも今度自転車で来ればいいじゃん」と言われた。
「来られるよね。Google mapで、うちから14kmって出た」「そうじゃなくて。郊外線は、自転車のまま乗れるよ。だから私、こないだパリで用事があった時、自転車で行ったよ」
「そうか!そうだった」と相槌を打ってから「いや、いま、電車に乗りながら、こっちに引っ越すのもいいかもなぁと思ってたんだよ」と洩らすと、「おいでよ!すごくいいよ、ヴェルサイユ」と彼女ははつらつと言った。

案内されるままに、可愛らしい小径を抜けて、例の教会の前に出るというマルシェに行くと、出店しているのは片手で数えられるほどだった。いつもの半数以下だったようだ。友人は、翌日にお呼ばれしている食事会にチェリーのタルトを作って持っていこうと考えていたらしく、チェリーを買うつもりだった生産者も来ていない、と残念がった。それでも、そのこぢんまりとしたマルシェの魅力は十分感じられた。のどかな雰囲気に、どこか南仏の街にでも行った気になったくらいだ。また来たい、と思った。
果物やチーズが調達できたらピクニックもいいね、と話していた案は持ち越しになった。

そこから、すぐ近くの菜園を訪れ、そしてピクニックにもジョギングにも最高に気持ちの良さそうな場所を教えてもらい、レストランが連なる裏通りをいくつか抜けながら、私は、どうにも不思議な思いがしていた。何度かヴェルサイユには来たことがあるのに、どうして一度もこのあたりを歩いたことがないのだろう?と思ったのだ。
最後にヴェルサイユに来たのは、17〜8年前だったはず……と思い返して、一つ気づいた。Google mapが日常生活に浸透する前の時代だ。街角にある大きな地図で現在地を確認しては、駅から宮殿までの道を辿っていったのを思い出した。
観光で訪れるのと、暮らし始めた人の案内で歩くのとでは、こんなにも街の切り取り方と見え方が変わって、さらに道標にも変化が加わると、もう、初めて訪れたのと同じくらいに、目に映るものが別のものになるような気がした。

日曜には賑わうマルシェの開催される広場を抜け、友人が気になっていたパティスリーに寄ったところで、彼女が言った。「うち、まだ全然人を呼べるような状態じゃないんだけど、ケーキも買ったし、よかったらうちに来る?」「うん、行く!」と答えると「私、明後日からバカンスに出るのに、トマトとかバジルとか色々あるから、食べちゃいたいんだ。サラダ作ってランチにしよう!」
そうして思いがけず、彼女の家でランチを食べることになった。

わたしの素

引っ越して1か月と少ししか経っていないのに、部屋には段ボールが一つもなかった。「すごいね」と言うと、「違う。ごちゃごちゃと家の中にあるのが嫌で、料理道具とかは、最小限の必要なもの以外、とりあえず全部カーブ(=地下の物置)に入れた」と教えてくれた。

彼女がキッチンでサラダを用意している間に、私は、テーブルクロスにアイロンをかけた。いい頃合いに冷えた、自家製のレモネードを飲みながら。
風通しの良い家で、日当たりも良くて、おまけに前には建物がないから人の目を気にすることもなくて、通りは交通量も少なく外はとても静かで、23分電車に乗って移動しただけなのに、バカンスに出たような気持ちになった。引っ越したばかりの友人の家が、まだ、いろんなものが揃っていない状態だったのが、その気持ちに拍車をかけたように思う。開放感。

そして出来上がったのは、これまた、夏の気分を盛り上げてくれるものだった。
アボカドときゅうり、グリーンピースに炒ったピスタチオを散らしたタルティーヌ。
色とりどりのプチトマトにきゅうり、アプリコットのサラダ。
黒がかったトマト、赤たまねぎ、ブラックベリー、ブルーベリー、紫色のバジル、ピスタチオ、ブッラータのサラダ。
火を通したのはグリーンピースだけで、あとは生野菜と果物にパンとチーズというのが、本当に夏のバカンス先のお昼ごはんみたいで、友人は「次回はもうちょっとちゃんと作る!」と言っていたけれど、私は、「こういうのがうれしいよ」と思っていた。即席で作った、気取りのないおいしさには、その時の成り行きや背景がついてくる。

パリを離れた友人の選択を、とても魅力的なものだと感じながら、まずはいまの自分の住環境を整えようとすっかりリフレッシュした気分で、家路についた。

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