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おいしさって、なんだろう?

オイシサノトビラ

おいしさって、なんだろう?

────オイシサノトビラはさまざまな人たちと一緒に、「おいしい記憶」につながるきっかけを、もっと届けられないかと考えたり話をしたりしています。今回は、エッセイストの松浦弥太郎さんにお話をうかがいました。

 

オイシサノトビラ
松浦さんには、オイシサノトビラを立ち上げる前から相談させていただきました。「味の素としてこういうことをはじめようと考えています」とお話した際、松浦さんはどう思われましたか。

松浦
テーマが「料理」ではなく「食」というところがおもしろいと思いました。「食」は食べるという行為だったり、生き方であったり、心の様子みたいなところに関わること。みなさん難しいテーマだということはわかっていたと思いますが「簡単ではないですよね」という話をした気がします。

たとえば、おいしそうな料理、すてきな生活シーン、それにまつわるコンテンツをそろえれば、できあがるものではないので。

メディアをつくるときは、テーマやコンセプト、枠組みを決めた上で進めていきたいものだと思いますが、このメディアは決めたことを続けていくのではなく、方向性だけは決めておいて、個人個人が真実を語ることによって、変化したり成長していくことを許容していったり、そういう非常に人間的なメディアになるといいなと思いました。

ただそれはすごく難しいことなんですよね。ふわっとしていて、どこにも錨を下ろしていないような浮いた状態。でも、関わる人たちの食に対する思いや記憶、感情みたいなことが、結果的にこのメディアの個性や魅力、人格になっていくわけです。属人的、人間的な不安定さがあり、型にはまっていないぶん、メディアだけど新しいコミュニケーション、新しい言葉や声が生まれていく予感がしました。見る人・読む人からすると、 誰かとおしゃべりをしてるとか、一緒に何かをするとか、なんとなくただ一緒にいるとか、そういう親しみや心地よさが、この新しいメディアでできたらいいだろうと思いました。

オイシサノトビラ
食事やおいしさというのは人によって違って当然だと思いますし、いまの時代だからこそそれぞれのおいしさの記憶をもってほしいです。

松浦弥太郎
はじまってしばらく経つけれど、このメディアは一体何を伝えようとしてるのかとか、何を言わんとしてるのかとか、何を分かち合おうとしてるのか、あえて言わなくていいような気がしています。それは受け取る側が自由に感じ取ること。もしくはそのコンテンツごと、人ごとに変わるかもしれないし、それでいいような気がする。「オイシサノトビラ」は、「テーマはこれです」「私たちが伝えているのはこれです」「発信してる人たちはこれをやっていきます」みたいなことを、あえて言わない自由さが新しいと思います。

だから、時が経つにつれて、それぞれの人がいろんな食に関わるストーリーを非常に私的なストーリーとして発信し、それがたくさん集まることで生まれるものが、結果として「おいしさ」の「トビラ」を開けるということです。

オイシサノトビラ
たしかにそうですね。ひとりひとりに自分らしい「トビラ」を見つけてもらいたいです。

松浦弥太郎
みんなにトビラがあって、そのトビラを、書く人、発信する側も、つくる側も、それを読む・見る人側も、それぞれのトビラを開けていこう。そのきっかけは、誰もが共有できる「おいしさ」という唯一の鍵。でも、おいしさは人によって違うじゃないですか。 記憶だったり、思い出だったり、感情だったりするし。味じゃなくて、心の様子だったり、景色かもしれない。

だから、おいしさということは、口の中の世界だけじゃないっていうことにたどり着くことができればすばらしいし、そのたどり着いた時にそれぞれの人が何を心で感じたかっていうことがコンテンツとして記録できれば、 それはそれですばらしいと思うんです。

オイシサノトビラを読んだことのある人は、このメディアに抽象的な印象を持たれると思います。でも、結果的には、共に思ったり、共に考える、共に語り合うメディアに育っていくんじゃないかなと僕は思います。今って、すべてを具体化して、それらに答えを持ってなきゃいけない時代ですが、 僕らにとって必要・大切なことって、「答え」ではなくて「問い」だと思うから。自分たちの暮らし・人生の中で、どんな問いを持つかということ。すなわち生き方そのものです。 その問いには答えがないけれども、問いという生き方が、僕らを励ましたり、何かに気づかせてくれたり、啓蒙してくれる。

オイシサノトビラ
味の素としては、味を中心として長年食に携わってきたぶん、特定の表現で説明したいという気持ちがすごくありますが「おいしさ」を考えると、いろんな記憶があったりして、やはり一人ひとり違っています。そういうところは「オイシサノトビラ」としてすごく大切にしています。

松浦弥太郎
僕は、「おいしさ」とは与えられるものではないと思っているんです。
たとえば「おいしくない」っていうのは、要するに「おいしさは与えてもらうもの」だと思って期待しているわけですよ。僕が思う「おいしさ」は、期待するものではなく、自分から見つけることなんです。

そこを間違えてしまうと、本当のおいしさにたどり着けない。口の中に入れて一瞬で「これはカレー味だな」とか「塩味だな」とかではなくて。本当の意味での「おいしさ」って、食という体験をしていく中で「このおいしさって何なんだろう」と、味を自分から探しに行くこと。「このおいしさって、こういう味なんだ」に自分で気づいて、そこで喜びが生まれるものじゃないですか。だから、結構努力しないと、本当のおいしさにたどり着けないと思うんです。

努力しないとどうなるかっていうと、大概「味がしない」となります。 味がしないとか、味が薄いとか、それはあなたの努力が必要です。目で見て、香りを嗅いで、よく噛んで、心を働かせて「このおいしさってなんだろう」と探しに行くことです。

野菜ひとつにしても、味の先には、たとえば「畑の景色が見える」とか「土の香りがする」とか、そういう「おいしさ」もある。本当のおいしさ体験って、そういうことだと僕は思うんです。

ですから、おいしさって楽に見つからないんですよ。そうじゃないと、ひと口目でおいしいものを求めてしまう。そうじゃなくて、心がおいしいって思うその体験には、味わう=探すという意識が必要です。それによって得られるおいしさっていうのは、自分にとって口だけのおいしさの何倍もしあわせに繋がるし、人生に関わりますよね。

つづく

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