甘いものとしょっぱいもの
ある日の朝、滞在しているアパルトマンから歩いてすぐのカフェで「甘いものとしょっぱいもの」という言葉に出会った。小さな店の窓に書かれていた。
Sucré. Salé.
甘いもの。しょっぱいもの。
こんなふうに直訳していいかわからないが、なんだかいい言葉だなと思って立ち止まった。日本なら「スイーツと軽食」と書くかもしれない。でもパリではもっと単純に、甘いものとしょっぱいもの。つまり、「おいしいものがありますよ」ということなのだろう。
その下にはEntrez. Goûtezとも書いてある。「どうぞ中に入って味わってください」という意味だ。ふたつともよくある言葉なのかもしれないが、こんなふうに大きな文字で書いてある店っていいなと思った。

その数日後、道端で小さなキッチンを見つけた。子どものおもちゃだった。誰かが粗大ゴミとして出したのだろう。木の下にぽつんと置かれていた。けれど、近づいてみると少し様子が違う。フライパンがある。鍋がある。おたまがある。小さな食材も残っている。まるで遊びの途中のようだった。果たしてこれは捨ててあるものなのだろうか。ここでも思わずぼくは立ち止まった。
最後に遊んだ子どもは、どんな料理を作っていたのだろう。甘いお菓子だったかもしれないし、しょっぱいスープだったかもしれない。それにしても道端に置かれたこのキッチンはすてきに見えた。

大人にとっては不要になったおもちゃでも、少し前までは誰かのレストランだった。誰かのキッチンだった。そこでは毎日たくさんの料理が作られていたのだろう。見えないお客さんのために。
パリでは、おいしいものを大切にする。それは高級レストランの話ではない。街角の小さなカフェのことだったり、家族で囲む食卓のことだったり、子どものおままごとのことだったりする。
甘いものとしょっぱいもの。その言葉は、食べ物の種類を表しているだけではないのかもしれない。誰かが誰かのためにおいしさを作ること。それを一緒に楽しく味わうこと。そんな豊かな暮らしそのものを表している言葉のように思えた。

その後も、「甘いものとしょっぱいもの」という言葉が頭から離れなかった。ある店に入ると、小さなテーブルに赤いギンガムチェックのテーブルクロスが広がっていた。二人分のナイフとフォークがきちんと並べられ、ワイングラスは伏せて置かれている。まだ誰も座っていない席なのに、そこにはもう誰かを迎える準備が整っていた。その光景はうつくしいと思った。

ある日入ったビストロのテーブルには、小さな塩の瓶が置かれていた。フランスの食卓ではよく見かける光景だ。塩は脇役なのに、いつもそこにいる。料理が運ばれてくる前からテーブルにいて食事を見守っている。ぼくはその塩を見ながら、また「甘いものとしょっぱいもの」という言葉を思い出した。
食事というのはお皿が運ばれてくる前から始まっている。席に着くこと。メニューを開くこと。窓の外を眺めること。人とのふれあい。そんな時間も含めておいしさであり食事なのだ。
そしてもうひとつ。フランスはカップル文化というけれど、ひとりもしっかりと受け入れてくれるやさしさがある。ひとりで食事をする人。ひとりで本を読む人。ひとりで考え事をする人。けれど、不思議と孤独そうには見えないのがパリ。ぼくはそうしているひとりの人を見るのが好きだ。

パリの人たちは食事の時間をとても大切にしている。けれど、それ以上に食事を迎える時間を大切にしているように見える。テーブルを整えること。パンを買いに行くこと。誰かを待つこと。読んでいた本を閉じること。そういう小さな時間があって、ようやく食事が始まる。だから食べることが、単にお腹を満たすことではなくなるのだろう。それはしあわせを味わうひとときなのだ。

うれしい日もある。そうでない日もある。ひとりで本を読む午後もあれば、誰かと食卓を囲む夜もある。子どもがおままごとをする時間もある。
パリで見つけた「甘いものとしょっぱいもの」という言葉は、食べ物のことでありながら、とても大切な暮らしのことにも思えた。
Sucré. Salé.
甘いものとしょっぱいもの。
パリの街を歩きながら、ぼくは何度もその言葉を思い出した。

メッセージ