梅雨と桜桃、太宰治
東京も梅雨入りし、しっとりと雨が降る日が続いている。
6月13日から19日にかけて、私は毎年憂鬱だ。
たった一日、その夜さえ違っていたなら続いていた命があったかもしれないことを、読めたかもしれない新たな物語があったかもしれないことを、想像せずにはおれないからだ。78年も昔の一夜に、今年もまた変わらぬ鮮度で希望を描く。
けれど6月19日の朝が来て、やっぱり私は叶わなかった希望の先を生きているのだと目が覚める。玉川上水で入水自殺を図った太宰治の遺体が、6日間の捜索の果てに発見されたこの日は奇しくも太宰39歳の誕生日でもあった。桜桃忌が来たのを告げるのは、たいてい雨の音である。
太宰治の生きた年月を追い越して6年が経つ。若い頃は39歳という年齢を大きな壁に思っていたし、この時期になると縋り付くように太宰治を読み返したり、心のひだを抉るように自己を省みたりもしていた。でもなんとなく、そろそろもう、そういうのはいいんじゃないかという気分。
いい意味で若い頃のような繊細さも厭世観もなくなって、生きることにも図太くなった。とはいえいまでも太宰作品は座右の書だし、あの夜さえ違っていればと願う気持ちに変わりはないが、今年はちょっと違った角度で太宰治を偲んでみようか。
だってここはオイシサノトビラ。暮らしにまつわる食の記憶を伝える場所なのだ。ならばひとつ、太宰治と食との関係を紐解いてみようじゃないか。

(『斜陽』を執筆した西伊豆・安田屋旅館にて)

(ある年の桜桃忌。太宰のお墓のある禅林寺にて)
「お出迎えなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」──『津軽』より
『津軽』は、太宰治が35歳の年に、自身のルーツを巡るために約3週間をかけて故郷・津軽を一周した記録を元にした自叙伝的小説だ。引用したのは、津軽訪問に先駆けて、友人N君に宛てた手紙からの抜粋だが、このあと文章はこう続く。
〈食べものには淡泊なれ、という私の自戒も、蟹だけには除外例を認めていたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しゃこ、何の養分にもならないような食べものばかり好きなのである。〉
その他に普段からよく食していたのは、バナナ、筋子、納豆、湯豆腐。これらがあれば他には何もいらないとまで言っていたらしい。もっとも太宰は歯が悪く、30代で早くも総入れ歯に近い状態だったため、やわらかいものしか食べられなかったという説もある。
津軽の郷土料理・若生昆布のおにぎりにも触れておきたい。若生昆布とは、早春の津軽半島で収穫した昆布を海風にあてて干したもの。海苔のように薄く柔らかな昆布を広げ、白ご飯をのせてくるんだそれを幼少期の太宰は好み、子守のタケにねだってよく握ってもらっていたという。
思い返せば学生時代、『津軽』片手に太宰の足跡を追いかけるように旅した日に、五所川原市の郷土料理屋「私花語(しかご)」で食べたあの味は忘れがたい。この女将さん、聞けばタケの親族だというのだ。受け継がれた味と思い出話を堪能して、その夜はなかなか寝つけなかった。

(新青森駅構内の食堂にて。こんなのもあった。「文学のお出汁です」)
「私は、筋子に味の素の雪きらきら降らせ、納豆に、青のり、と、からし、添えて在れば、他には何も不足なかった。」 ──『HUMAN LOST』より
太宰といえば味の素に触れないわけにもいかない。
作中で言及されている以外にも、「地上で信じていいのは味の素だけ」「僕がね、絶対、確信を持てるのは味の素だけなんだ」と太宰が語っていたという記録が友人作家・檀一雄の著作に残されているように、本当に何にでも、羊羹にも饅頭にもお汁粉にも!味の素を振りかけて食べていたそうだ。
ちなみに味の素が発売されたのは太宰が生まれたのと同じ1909年。
「たぶんこれ、太宰が使ってた頃の味の素です」と、あるときファンの方から頂いたのが下記の缶だが、当時はコンビーフ缶のように付属の巻取り鍵を使って開封するスタイルだったようだ。賞味期限はないという味の素、試しに中身を確認してみたいものの、ちょっと怖いのと開けるのが惜しいほどにカワイイのとで、太宰治全集とともに本棚に並べて久しい。



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