こだわりについて
私は食へのこだわりが薄い。食にまつわるエッセイを寄稿している立場で、こんなことを言っていいのかはわからないが。ただ、食べることに興味がないわけではなく、わりと何を食べてもおいしいと感じることができてしまうがために、これといった強いこだわりがないのだ。それはある意味幸せなことなのかもしれないが、このこだわりの薄さに引け目を感じることも、ときどきある。
久しぶりに会う友人と食事をすることになったとする。向こうからお誘いがあった場合は店選びをお任せしてしまうことも多いが、こちらから誘った場合はやはりいくつか提案するのが礼儀だろうと思い、あれこれ検索してみる。けれど、私はこの店選びという作業がとても苦手だ。日々おいしいものを追い求めているわけではないので、思い当たる気の利いた飲食店が少なく、何を基準に選べばよいかわからないのだ。そして、もしも店選びを誤った場合、相手をがっかりさせてしまうのではないかという心配も頭をよぎる。こんなときに、自分なりのこだわり(=指針)があればいいのになと思う。
誰かとの食事の約束を取りつけるのは必ず、その人と直接会って話したいという気持ちがあるとき。それならば食事に限らず、山歩きでもなんでもいいのかもしれないが、やはり同じテーブルに着き、向き合って言葉を交わすことでのみ引き出される話題があることも確かだ。そのときに食べるものは、おいしくても、いまいちでも、正直どちらでもいい。おいしければもちろん「おいしかったね」という喜びを分かち合うことができるし、いまいちなら「いまいちだったね」と顔を見合わせて笑うことができるからだ。私が望むのは、とりとめのない話をしながら同じ時間を共有すること。お互いを深く知るための言葉の交換。そして別れたあとに、共通の記憶をそれぞれの日常に持ち帰ることができたなら素敵だと、いつも思っている。

食へのこだわりの薄さは、山の中でも変わらない。山を始めた当初は、いわゆる“山ごはん”なるものを嬉々として作っていた時期がある。嵩張るバーナーや鍋を担ぎ、普段使わないような食材も使ってみたりして、いかに見栄えのする食事を作るかということに奮闘した。それはそれで楽しいひとときだったが、今思うと“山ごはん”作りは、食へのこだわりというよりも、山のなかで行う一種のアトラクションへの興味に過ぎなかった。
それから数年が経ち、いつしか山での食事は日々の生活の延長のようなものばかりになっていった。海苔さえ巻かないおにぎりや、前夜に買った割引のメンチカツで作るサンドイッチ、それに適当なお惣菜をコンビニで買い足して、食後はインスタントのコーヒーで締める、といったふうに。調理器具の出番は、すっかり少なくなった。より軽やかに山に行きたい。山に行くことを大ごとにしたくない。そんな気持ちが年々強くなってきているからだろう。この、山における食へのこだわりの薄さこそが、今の私がどのようにして山と関わりたいのかということをよく表しているように思う。

食に限らず、世のなかのあらゆることにおいて、こだわりの薄さは意志の欠如というネガティブな捉え方をされることも多いかもしれない。こだわりを強く持ち、信念を携えて「私はこうなのだ!」と主張していかないと、誰にも見つけてもらえないのではないかという怖さもある。けれど、そんな人間ばかりが世に溢れていては疲れてしまう。私のような人間がいたってよいだろう。これからも持ち前のこだわりの薄さで生きていこうと、この原稿を書きながら思うのだった。

