桜の頃
起きてカーテンを開けると昨日よりも桜の蕾が玉らしくなっているのが分かる。
「桜はイメージよりもずっと玉」と発見したのはエッセイスト・古賀及子さんの娘さんで、私はその視点を古賀さんのエッセイ集『おくれ毛で風を切れ』を読んで得た。枝のあちこちで蕾が開花し、桜がいよいよ玉然としていく様子を見守る。あと10日、あと5日。テレビをつける習慣なんてとうになくなったのに、この時期はついリモコンを手元に置いてしまう。桜の開花情報と天気予報が気になって仕方ないのだ。情報番組を観ていると、昨日と言ってることが違っていて慌てる。春の天気は読みづらいということを一年ぶりに思い出しつつ、カレンダーに記した「花見」の日までの日数を指折り数える。

きっかけはうしろめたさだった。この家に越してきて迎えた最初の春、リビングの窓いちめんに広がる木が桜の木であることを知り、それがあまりに見事に咲くので、かえって申し訳なくなった。木は神社のお社の裏手にあって、立地からして私の住む部屋からしか見えない。独り占めすることに気が引けるなら、家を開いてしまえ。ふとした思いつきで始めたお花見だった。日頃からお世話になっている作家や編集者に声をかけ、せっかくならご家族やパートナー、友人もご一緒にとお誘いしたら思った以上に集まって、以来定例化している。
ダイニングテーブルに椅子は7脚。続きのリビングの床にローテーブルを用意して、ぐるりを囲めるようにする。酒飲みはテーブル席、子連れの方はリビング側へ自然と集まる。皆が何を持ち寄ってくれるか想像するのも楽しみのひとつだ。定番の花見団子やおいなりさん、パンにワインにチーズ、なかには故郷から棒寿司を取り寄せたと言う人もいる。「今年は参加できないけど美味しい日本酒送るな!みんなで飲んで〜」と、宅急便で届いた日本酒は綺麗な桜色をしていて、手元にも花が咲いたようだった(一升が、あっという間に空になった笑)。



(子らの興味を引きたくて、たこ焼き屋さんに扮するのも今年で4年目)
膝の上に乗る子どもをあやしながらおしゃべりをしている人がいる。ただいまーと声がして見ると、手を真っ黒にして子らが戻ってくる。神社の脇の公園で遊んできたという。去年はおなかの中にいた子が、今年は腕の中で眠っている。ベランダに並んで話し込んでいた二人が、ハグをして笑顔になった。カウンターキッチンに立ちながら、部屋全体を見渡して思う。なんだこれ、まるで奇跡みたいじゃないか。
本は突然発生的に本屋に並ぶのではなく、作家が日々を送るそのなかから生まれているという至極当然なことに改めて気づき、ばかみたいにびっくりしてしまう。いつの間に私はこんなにも、本に近づいてしまっていたのだろう。この景色を忘れてはならない。この景色ごと本を伝えていきたいと、襟を正す。


私の振る舞い料理は、料理家の今井真実さんのレシピを参考にしているものが多い。ローストビーフ、焼き豚、ベーコン、新じゃがいもの炊き込みご飯、新玉葱のスープ、キャロットラペ、春野菜の出汁びたし、紅白なます、きゅうりの水漬け……、これまでのお花見で振る舞ってきたこれらもすべて、今井さんのレシピがベースになっている。おいしいおいしいと褒めてもらうたびに、心のなかで今井さんに手刀を切っている。それにしても、舌が合う料理家をひとり知っていることの、なんと頼もしいことか。
今井さんと舌が合うことを確信したのは、実はレシピが先ではなかった。『いい日だった、と眠れるように 私のための私のごはん』所収エッセイで、私も馴染みの中華料理屋の酢豚について今井さんが書いていて、その内容にひどく共感したのがきっかけだった。それは所謂「おいしい」だけではなく、むしろ、おいしいと思えなくなってしまった後のことを綴っていて、一皿の料理を通して著者の生き様を示しているような内容だった。
人生を変えるほどの出会い、家族が増えても続いた店との蜜月、けれどいつしか変わってしまった味、諦念と別れ、なおも忘れられない味を求めて自作を繰り返す日々、再現の鍵は実に身近なところにあったこと……。その店の酢豚の味の変化と寂しさを私も同じように感じてきたからというのもあるけれど、求めるのではなく自分でひらこうとする転換の潔さや、何かを掴もうとしているときほど手元に何があるかに目を凝らすことの大切さをさらりと書いてのける彼女なら、レシピを借りて、私好みにひらいていくことさえも喜んで受け入れてくれるんじゃないかと思ったことを覚えている。







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