

夕方の6時頃になると、ハドソンリバー沿いのリバーサイドパークに散歩に出かけるのが楽しみのひとつだ。
リバーサイドパークは72丁目から150丁目あたりまで続く細長い公園で、川沿いに伸びる美しい遊歩道もあり、散歩だけでなく、ランニングをする人やベンチに座って読書をする人など、ニューヨーカーの憩いのスポットになっていた。
ぼくは90丁目あたりまで夕暮れの景色を楽しみながらのんびりと歩き、りんごの木が目印のいつも決まった場所のベンチで一時間ほどぼんやりと読書をする。りんごの木は4月になるとピンク色の花が咲くのが楽しみのひとつだった。
ある日の夕方、Kさんを誘ってリバーサイドパークを歩いた。ニューヨーク暮らしの大先輩であるKさんに、自分の好きなニューヨークを知ってもらいたかったのと、この川沿いの景色を眺めながら誰かと一緒に歩きたい気持ちがあったからだ。
すてきな場所を見つけると、「ああ、ここをあの人と一緒に歩けたらいいな」と思うのは、おいしい料理を食べたときに、誰かの顔を思い出すのと同じ感覚で、まさに「ひとりよりふたり」という言葉のとおり。
「しばらく歩いてなかったから嬉しいわ。夕方になったら迎えに来てください」と、Kさんはぼくの誘いを喜んでくれた。待ち合わせではなく、迎えに来てというのはKさんいわくデートだから。
約束どおりに迎えに行くと、Kさんはコーヒーポットとドーナツの入った紙袋を用意していて、「さあ、行きましょう」とぼくの腕にそっと手をかけた。
初夏のリバーサイドパークは心地よい風がそよいでいて気持ちよかった。ぼくとKさんはおしゃべりをしながらゆっくりと歩いた。Kさんは、「懐かしい、懐かしい」と何度もつぶやいた。「昔よく来たんですか?」と言うと、「そうよ、ここは思い出の場所なの」とKさんは遠くを見つめながら答えた。ぼくはそれ以上訊かず、なんてことのない他愛ない話を続け、手を組みながらふたりで歩くこのひとときにしあわせを感じていた。
「ここがいつもぼくの座るベンチです」と言うと、「あら、ほんとうにいい場所ね」とKさんはベンチに静かに腰掛けた。「なぜかここがいちばん落ち着くんです」と言うと、「その気持わかるわ。そういう場所があることはしあわせよね。私にもいくつかあるわ。自分が自分に戻れるようなというか、そこに行けば、元気になったり、気持ちが新しくなるような感じよね」とKさんはぼくの手をさすりながら言った。
ぼくとKさんはベンチに座って夕暮れの景色をぼんやりと眺めた。何も話さず、何も語らずに、互いにそのひとときを味わうように。
「さあ、コーヒーとドーナツをいただきましょう」とKさんは言い、持ってきたマグカップにポットからコーヒーを注ぎ、紙袋の中に入ったドーナツをナプキンで包んで、ぼくに渡した。
「あのね、私、まだ仕事がうまくいかなかった頃。もう何十年も前よ。ここでこんなふうにコーヒーとドーナツをよく食べたの。懐かしいわ。何をやってもうまくいかなくて、ほんとうにつらかった。けれども、ここで夕暮れの景色を見ながらコーヒーを飲んで、ドーナツを食べるとなぜか元気になれた。ドーナツの甘さがほんとうにおいしくてね。部屋で食べるよりも百倍おいしく感じたのよね。だからあの頃ここで食べるドーナツがどんなおいしい料理よりも私にとってはごちそうで、このおいしさは私の原点かもしれないわ。そんな思い出があるのよ、ここには」
そして、「やっぱりここで食べるドーナツはおいしいわ。どう?おいしい?」とKさんはぼくに聞いた。ハドソンリバーの広い景色を眺めながら、そよぐ風に吹かれながら食べるドーナツはたしかにおいしかった。「このおいしさで、いろんなことが帳消しになる気がします」と言うと、「そう、その通り!こうして食べるおいしさで、つらいことや嫌なことなど、何もかもが帳消しに思えるのよね。そして、またがんばろうと思えるの」とKさんは言った。
何十年も前にひとりでニューヨークに来て、いちから仕事をはじめて、たくさんの苦労を味わい、今では成功を収めたKさんを支えてきたのは、夕暮れのリバーサイドパークのベンチで食べる甘いドーナツだったと知ると、自分も似たようなことをしているその偶然に驚くだけでなく、どんなことでも一見楽しみのように見える習慣というのは、自分で自分を必死に支えるためというか、涙をぬぐって元気になるためのリセットであると思った。
「ベンチに座って、気持ちいい風に吹かれて、うつくしい夕暮れの景色を見ながら、甘いドーナツをかじる。しかも横には大好きな人がいる。こんなしあわせってないわ、明日もがんばれるわ」とKさんは言った。ぼくも同じ気持ちだった。
いつしか夕暮れは夜に変わり、空を見上げると星がきらめいていた。
「明日も晴れるね」とKさんは言った。
わたしの素
わが家の食卓につけものは欠かせない家庭料理のひとつで、特にきゅうりのぬか漬けは子どもの頃からの大好物だ。食べ方というか切り方は、その家それぞれだと思うが、わが家では、きゅうりの食感を楽しむために1センチほどの厚さに輪切りにするのが好み。くわえて隠し包丁をいれるのがこだわりというか、さらにおいしく食べるための隠し味になっている。これは名店「日本料理かんだ」でいただく、きゅうりのぬか漬けを真似したもので、双方向から軽く細かく包丁で切れ目を入れてから輪切りにすると、ぐっと味わいが深まるというか、口にした食感にも変化もあり、このひと手間で、きゅうりのぬか漬けがこんなにもおいしくなるかと目が丸くなる驚きがある。お試しあれ。