アンとダーノルドの話をしよう。
ダーノルドは、広告会社に勤めていて、会社を辞めて作家になることを夢みていた。アンは、料理の達人でブロードウェイの歌手だった。そうそう、彼らはニューヨークに暮らす夫婦だ。
アンは、僕が「ニューヨークのお母さん」と呼んでいるKさん(日本人)の親友の一人で、ある夜、アッパーウエストのKさんの家に借りていた本を返しに行った際に、彼女も遊びに来ていてそこで知り合った。
アンはキッチンの片隅に立ちながらマティーニを飲み、ダーノルドの愚痴を半分笑いながらKさんに話していた。「英語の勉強になるからあなたも少し聞いていけば」とKさんが言うので、僕は冷蔵庫から勝手にアイスティーを出してグラスに注ぎ、アンのニューヨーカーならではの早口英語に耳を傾けた。
彼女の気に入らないことはこんなことだった。手をかけた料理を作り終わって自分が食卓に座るまで、ダーノルドは食卓には座らない。濡れた手を拭いて、やっと座ろうとすると、彼女の椅子をていねいに引いて座らせてから、自分が座ることだと話した。
「なんてやさしい人なの!とっても紳士的で。日本人にそんな男性はいないわよ」とKさんは言った。僕も同感だった。すると、アンは手を顔の前で振って(その時、マティーニが少しこぼれた)、「わたしは彼にあつあつのおいしい料理を食べてほしいの! 料理が出来上がって、今すぐ食べてもらいたいおいしいタイミングがあるじゃない。彼は私を気遣うことで、いつもそのタイミングを逃して、あつあつを逃してるのよ。そんなんじゃ作り甲斐がなくなるわ」と言った。Kさんと僕は目を合わせてから大笑いした。
そんな楽しい夜をきっかけに、アンの家で、彼女が料理をふるまう機会に、僕は何度も招かれるようになった。毎回、彼女の料理のすばらしさやテーブルセッティングの美しさ(いつもキャンドルを灯す)には驚かされて、料理というか食事というもののほんとうの楽しみ方を、僕はアンとダーノルドから教わったと思っている。
「見た目がわるいけれどおいしい」という、たまに聞く言葉は皆無。「料理は、見た目、香り、雰囲気、温度、味、このすべてが大事」というのがアンの料理哲学だった。これのどれかひとつでも欠けてはいけない(ダーノルドはいつも温度を逃していたからアンに小言を言われていた)。それらをみんなで大切にしながら食事をすることが大切。そうして心から湧き出る言葉が「おいしい」なのだ。
「おいしい」は味から生まれるのではなく、いくつもの大切から生まれる言葉なのだ。僕はこのことをニューヨークで学んだ。
Kさんいわく、彼らのように料理なり食事を心から楽しむニューヨーカーは珍しいらしい。都会に暮らすニューヨーカーは仕事をしながら食べ、本を読みながら食べ、ドライブをしながら食べ、歩きながらだって食べる。そして家に帰ったらテレビを見ながら食べる。
だからアメリカでは手で食べられる料理はなんでもヒットする。ハンバーガー、ホットドッグ、フライドチキン、ピザ、タコス、ドーナツ、プリッツェルなど、みんな何かをしながら食べられるものばかりだ。これらは、「フィンガーフード」や「ワンハンドフード」といわれ、「コミューターフード(通勤食)」とも「ノーシンクフード(考えないで食べられる)」とも言われていると教えてくれた。
Kさんの話を聞いていたアンは僕にこうも話してくれた。「食卓というのは、空腹を満たすための場所ではなく、家族や友人と、思いやりや分かち合いの心を育む、とっても最高の場なのよ。けれども残念ながら、食卓で料理を分かち合いながら食べることを知らないで育つ人も多いのよ、ここニューヨークでは」
彼らと接するうちに僕は自分も料理をしてみようと思った。僕はアンにこう聞いた。「料理を始めるにはまずはどうしたらよいのでしょう?」と。すると「そうね。フィフスアベニュー22丁目にある、何代も続いている刃物屋さんがあるわ。そこでゾーリンゲンの一番上等の庖丁を買うことね」と彼女は答えた。
Kさんも「うんうん」と頷いた。
つづく
わたしの素
大根と油揚げのお味噌汁
「お味噌汁の具でいちばん好きなのは何?」と聞かれると、ほんとうに悩んでしまう。それを聞かれると、ほぼ一日はそのことばかりを考える。そうだな、玉ねぎのお味噌汁かな、豆腐とわかめかなと。そんなふうに考えた末に思い浮かぶのが、大根と油揚げのお味噌汁だ。一番か二番かわからないけれど、とにかくすごーく好きな具の組み合わせです。これを作って食べると、いつまでもこのおいしさが続きますようにと祈りたくなる。特にこれからの冬は大根がおいしくなる。太いものよりも、細くてまっすぐに伸びたものを選ぶと食感がいいと母から教わった。油揚げのおいしさは言うまでもなく。加えると大豆の旨みとコクが出る。子どもの頃、大根と油揚げのお味噌汁をおかわりすると、母が喜んだことを思い出すのです。