

最後の一人旅は2018年に行ったレバノン。
暖かな気候の海辺と、雪が残る険しい山。安くて美味しいシーフードとワイン。串焼きの肉も豆料理もどれも美味しくて、旅行中3キロ太った。点在するアートギャラリーをまわりながらひたすら街を歩き、歩き疲れてバスに乗りシリアとの国境近くまで行くと難民キャンプがある。世界遺産の立派な遺跡はほとんど管理されていなくて、誰でも触り放題で心配になった。あれ以来一人旅はできていない。
行ったことのない国の中から、物理的に行きにくい国を選ぶ。行きやすい国は老後に取っておくため。ビザの必要がなければ出発数日前に行きの航空券だけ取って、1日目の宿を離陸前に成田空港で予約する。それが長年続けた旅のスタイルだった。21歳の時にアルバイトで貯めたお金で、一人世界一周旅行をして以来、時間ができるたびにふらっと一人で海外に行き、訪れた国を数えたら100カ国を超えていた。気づけば 世界の半分の国をまわっていることになる。
アシスタント時代は5ヶ月間ほぼ無休で、ロケが終わって片付けと次の準備をして深夜2時に寝てまた朝5時に起きてロケ出発、みたいに働く生活だった。このドラマがクランクアップしたらどこか遠くに行く、そのことだけを楽しみに生きていたと言っても過言ではない。
仕事柄、計画を立てて実行する、というサイクルを回すのが日常なので、旅ではできるだけ何も決めず、目的はいつもたった一つだけ。その土地の何かを食べることだったり、世界最大の滝でバンジージャンプをすること、だったりする。レバノンの時は美味しいフムスを食べること、だった。目的が一つだと、todoリストに追われることもないし、出会った喜びや幸福のすべてが「思いがけないラッキー」になる。
アルゼンチンの氷河の氷で美味しいウイスキーをロックで飲むこと、ナミビアの砂漠で朝日を見ること、死海に浮かびながらBLANKEY JET CITYのダンデライオンを聴くこと。そんなふうに旅の目的を一つだけ決めて、予定らしきものはほとんどないまま、天気が悪ければ一日ホテルでダラダラ寝て過ごしたり、しっくりこなければすぐ別の国に移ったりする、そんな旅を繰り返してきた。
どうしてこんなに旅が好きなんだろう。コロナ禍、出産〜育児と、なかなか一人で旅に出られなくなってしまった今、あの時間のことを思い返してみると、私にとって一番大事だったのはたぶん物理的に非日常に移動することだったように思う。
ドラマの仕事をはじめてから、映画、音楽、読書など長年趣味と呼んでいたものすべて が仕事とくっついてしまい、仕事とプライベートの境界線が全くなくなってしまった。24時間も365日もすべて地続きで、東京で生きているとうまく息継ぎをすることができなくなった。物理的に大きな移動をして、誰も自分のことなど知らない、できれば日本人もほとんどいない、全く知らない土地に立ってようやく大きく呼吸をして、日常に切れ目を入れることができる気がした。自分の周りにある溢れる情報の中から、仕事に使えそうなものをひたすらピックアップする日々から束の間でも逃れることができた。旅に出れば、そこにあるものをただただ景色として眺め、そこから何かを掴み取ろうとする構えを取らずに五感を使えた。そこは自分の休息のためだけの時間で、何の成果もなくていい。何の報告もしなくていい。当時の自分にとってそれは非常に贅沢で、幸福な時間だった。
次に一人旅ができるのはいつになるだろう。一人、はもうしばらく難しいかもしれない。だから、次は誰かと一緒でもできるだけ「自由な旅」を目指すことにしようと思う。ふらっとどこか遠くに行って、天気や気分に任せてその日の予定を決めて、機嫌よく楽しく過ごす。まだ小さな娘とも、いつかそんな旅をしてみたい。
わたしの素
極貧の世界一周旅行をしていた21歳の時、宿代を浮かすためによく夜行列車に乗った。寝台は高いので普通席に座って、バックパックを抱えうたた寝をしながら夜を明かした。コペンハーゲンからケルンに移る夜行列車 の6人コンパートメントで、ドイツ人の男性と二人きりになった。その時私はアウシュビッツ収容所で買った写真集を抱えていて、それに気づいた男性が話しかけてくれて、それぞれの国の戦争の話から始まり、英語教育について、恋人について、拙い英語でも話は盛り上がり一晩中話し込んだ。朝7時、到着したケルンで待っていた男性の友人が私の分まで温かいサンドイッチを買ってきてくれて、ケルンの大聖堂まで案内してくれた。この写真はその夜行列車の壁に貼り付けられていたプレートを男性が半ば強引に車掌さんからもらって記念にとプレゼントしてくれたもの。
SNSもスマホもなかった頃、徹夜明けでボーッとしていて別れの時に連絡先の交換すらしなかった。もう二度と会うことはないかもしれない。それでも、あの時三人で食べたサンドイッチが、間違いなく私の人生で一番美味しいサンドイッチなのだ。