

──── 「哲学対話」という言葉を知っているだろうか。哲学と聞くと、ひとり静かに考えるようなイメージがあるが、哲学対話はそうではない。複数人が素朴な問いを持ち寄って集い、対話する。答えを見つけるのではなく、人の話に耳を傾け話し、考えることに重きを置く行為だ。哲学者の永井玲衣さんは10年以上前から各地で哲学対話の活動を行ってきた。「そんなこと考えても意味ない」と片付けられてしまいそうな小さな問いを置き去りにせず、向き合うこと。永井さんはそれを「手のひらサイズの哲学」と呼ぶ。
中高と東京のカトリック系学校で学んだ。恵まれた環境だったが、だからこそ「深く考えなくてもいい」という雰囲気に満ちていた。
「世界はこんなにもわけがわからないのに、考えようとしても、それは必要ないとされる。何かヒントが欲しくて、本を読むことに没頭すればするほど、世界の多様性が見えてきて……。ますますわけがわからなくなりました」
17歳、高校2年生の時に出会ったのが哲学者ジャン=ポール・サルトルの本だった。
「サルトルは『この世界は無価値である。でもそれは、あなたが意味づけできるものだ』ということを書いていて、それを知った時に『世界の価値は自分で考えろ』と言われたような気がしたんです。世界のことは誰かが考えるものだと思っていたから、『自分で考えていいの⁉』って、心底びっくりしました」
大学の哲学科に進学すると、同じ思いを持つ仲間がいた。自由に考え、話せる、楽園みたいな場所だった。でもある時、学外で行われた哲学対話の場に参加し、また大きな衝撃を受ける。
「大学の外にはそれまで出会ったことのない人たちがいて、いざ対話しようと思っても、自分の言いたいことが伝わらないし、相手が話していることもよくわからない。わー、なんだか怖い! と思ったのですが、でも同時にそれがすごく大事なことにも感じて。 "多様性を高めよう"なんて言われますが、そんなことしなくたって世界はすでに多様で、色々な人がいる。でもだからこそ集って、ちゃんと話せたり聞けたりする場が必要なんだ。そう実感したことが哲学対話を始めるきっかけになりました」
異質な他者と出会い、話す。それはとても勇気と根気のいることだ。
「私たちは誰でも必ず何かしらの問いを持っています。でもいざ他者を前にすると誤魔化したり、演じたり、こんなことを考えちゃダメだと思い込んだりしてしまう。それは今の社会にそれを表現できる場がないからです。哲学対話という場を用意すれば誰しもが語り出します。問いがあれば話すことができる。話すことで繋がることができる。わからないことだらけの世界でも共に考えることができれば、そこに何かしらの希望が生まれると信じているんです」
どれだけ対話を重ねても考えても、世界がよくわからなくなることがある。そんな時に永井さんはタコスを食べに行く。
「悲しいなとか寂しいなとか、ショックだなとか、そんな気持ちの時って、『どうせ世界なんて、社会なんて、こんなもんだ』って、すごく画一的な考えに陥ってしまいがちです。タコスって、色々な具材がのっていて、かぶりつくと口の中にすごく複雑で多様な味が広がるんですよね。その瞬間、『ああ、世界はまだ多様だった』って、思い出せるような気がして。特に恵比寿にある〈ラ・エスキーナ〉のタコスは具材の種類が多くて、多様性に満ちている。それにたびたび救われているんです」
近年、戦争反対をめぐる対話のプロジェクトを立ち上げた永井さん。戦争や平和、政治について仲間と考える際にも、タコスをシェアしながら対話を重ねている。
「タコス屋さんってすごく賑やかで、戦争の話なんて場違いだと思われるかもしれませんが、私はそういう場所から戦争や、私たちを取り巻く社会が抱える問題についての会話が聞こえてきてもいいと思うし、そうありたいと思うんです。だって、それらは私たちの日常と地続きにあることで、決して他者化していい話ではないから。できれば重たい話はしたくない、汚い部分は見たくない。でも、だからといって、綺麗で耳触りのいい言葉で片付けてしまってはいけない。そう強く感じています」
タコスを頰張りながら、永井さんが「そういえば……」と付け加える。
「思えばタコスって食べるのが難しいですよね。絶対にボロボロこぼれちゃうし、手だってベトベトになるし。デートでは絶対に選ばない食べ物ですよね(笑)。でもその、お行儀よく食べられないところも好きなのかもしれないなって、今話しながら気づきました。合理性や潔癖さ、綺麗にまとめることが求められがちな今の世の中だからこそ、タコスのどうしようもない〟ままならなさ〝に魅力を感じるのかもしれません。世界や社会も同じで、そこを受け止めて考え、話すことからすべてが始まると思うので」
わたしの素
「豆腐干を初めて食べたのは、中華料理店だったと記憶しています。豆腐の水分を抜いて軽く乾燥させ、細切りにしたもので、たしかその時は和え物として出てきたと思うのですが……。と、こんなふうに豆腐干はさりげなくて、決して主役にならない食材です。みんなパッと食べて、それを食べたことすら忘れてしまう。その様子を見ていて、『私は忘れずにいたい』と思ったんです。世界には説明しづらかったり、派手でないものがあって、そういうものほど記憶から省かれてしまう。豆腐干はその象徴のような気がして、味がどうこうというより、その存在を忘れないために日常的に食べたいと思うのかもしれません。ごま油とパクチーで和えるのが、我が家の定番です」