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ニューヨークの朝にパリを思う

「今日もていねいに。」

ニューヨークの朝にパリを思う

松浦弥太郎

エッセイスト

松浦弥太郎

旅をしていると、いつか訪れた他の旅先のことを思い出したりする。
パリにいればニューヨークのことを。ニューヨークにいればパリのことをというように。
それらは懐かしむ気持ちとはちょっと違って、どちらかというと旅先で出合うささやかなしあわせの連鎖のよう。うれしさがうれしさを呼び起こすみたいな。

パリにいるとニューヨークのおいしい朝食を思い出すという話を書いた。今回はニューヨークにいると思い出すパリを書こうと思う。

ニューヨークの朝はホットコーヒーで目を覚ます。どこに泊まっていても、近所のコーヒースタンドに、ホットコーヒーを歩いて買いに行くのが習慣だ。朝だからか髪の毛がボサボサのままコーヒー片手に歩いている人を微笑ましく見るが、ぼくもその一人。
ホットコーヒーにはいつもたっぷりのミルクと、スプーン一杯の砂糖を入れてもらう。これをなんというかわからないが、まあ、コーヒーに牛乳を混ぜて、少し甘くしてもらったミルクコーヒーだ。牛乳は冷たいから、熱々のコーヒーがぬるくなる。これがまたちょうどいい。

いつも蓋つきの紙コップで持ち帰る。この紙コップがニューヨークならではの「Anthora cup(アンソラ・カップ)」というもので、古代ギリシャをモチーフにした柄に、「We are happy to serve you」とメッセージが書いてある。今は少なくなったけれど、少し前まではどこでコーヒーを買ってもこの紙コップだった。白地に赤い字で「THANK YOU」がたくさん書かれた、あのレジ袋もその類のひとつ。もはや絶滅危惧種。

いつしかこの「Anthora cup」はニューヨーク名物になっていて、MOMA(ニューヨーク近代美術館)のギフトショップで、おみやげとして売られていたりするからおもしろい。まあ、そんな紙コップに入ったぬるいミルクコーヒーを持ち帰って、朝のラジオを聴いたりしながら一日をはじめる。

そうしながら、ぼんやりと窓からの景色を眺めていると、ふとパリを思い出す。そう、朝のパリで味わうカフェ・クレーム(エスプレッソに泡立てたミルクをのせたもの)。ニューヨークのホットコーヒーには失礼だけど、おいしさには雲泥の差がある。ぼくはカフェクレームとバターの香りたっぷりのクロワッサンという朝食が大好きだ。

ニューヨークに居ながらして、パリの朝が愛おしく思うというこの心境。ニューヨークの空は今日も高く、澄んでいるのに、どこか乾いている。それはそれで味わい深いが、パリの空気には心地よい湿り気があってやさしさがある。

カフェ・クレームとクロワッサンは、パリではどこでも味わえる。けれども、愛おしく思うのは、エッフェル塔を望む16区のトロカデロ広場近くにある「Carette(カレット)」という老舗カフェのカフェ・クレームとクロワッサンだ。知る人ぞ知る店ではなく、観光名所かもしれないけれど、このカフェには大切な思い出がある。

昨年のある朝、パリのトロカデロ広場で、日の出とともにエッフェル塔を眺めた。空がゆっくりと桃色に染まっていく幻想的な景色を見つめながら、ふいにその光景が思い浮かんだ。
あのときのパリの朝。長く思い出せなかった、忘れられないおいしさのカフェ・クレームとクロワッサン。それが「Carette」だったことを、その朝、ようやく思い出したのだ。そうだ、そうだ、このカフェだと。

まだパリをそれほど知らなかった頃、ぼくはある朝、ふと立ち寄った「Carette」でカフェ・クレームと、バターの香りに満ちたクロワッサンを食べた。ぼくは一人だった。そのときパリでたくさんの失望をし、落ち込んでいたけれど、そのおいしさに胸が高鳴り、その日そのときがぼくにとってのパリそのものになった。あのときのおいしさが「大丈夫」とぼくを励ましてくれた。
まぶしい朝の光とやさしいおいしさ。すべてが初めて出会うしあわせのようだった。けれど、いつのまにかその記憶の場所を忘れてしまい、ずっと思い出せずにいたのだ。

そのことをぼくはニューヨークで思い出していた。
アンソラ・カップのミルクコーヒーを味わいながら。

わたしの素

じゃがいも料理はいろいろとあって、肉じゃがを筆頭にどれも大好きだ。と言いつつも、ついつい作ってしまうポテトサラダがある。ポテサラと言ってもいわゆるそれではなく、ガーリックをたっぷりと使った自慢の一品だ。作り方はこんなふう。切り分けたじゃがいも(皮つき)に、オリーブオイル、ローズマリー、みじん切りしたにんにくをざっくりと和えてから、グラタン皿に入れて、オーブンでしっかりと焼く。それにマヨネーズとレモン汁、パセリを混ぜるだけだけど、手が止まらないおいしさでびっくりする。一晩置くと、味がなじんでさらにおいしくなる。レモン汁とパセリを混ぜたマヨネーズは万能で、野菜との相性が特に良い。レモン汁を加えるこのひと手間がくせになる。

連載

「今日もていねいに。」の扉

松浦弥太郎

エッセイスト

松浦弥太郎

少しちからをぬき、キホンを大切にする松浦弥太郎さんと、彼ならではの素をつくる、くらしと食事。

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