
「今日もていねいに。」
ニューヨークの「いつもの」

エッセイスト
松浦弥太郎
不思議なもので、ニューヨークにいるとパリを思い出し、パリにいるとニューヨークを思い出したりして、何を思い出すかというと、たいていはおいしかったあの味この味だ。
ニューヨークの味と言われて思い出すのは、アッパーウエストサイドの「バーニー・グリーングラス」という、スモークサーモンやチョウザメといった様々な魚の燻製を扱う、老舗のユダヤ料理店だ。ぼくはここの朝食がニューヨークいちおいしいと太鼓判を押している。映画「ユー・ガット・メール」で、メグ・ライアンがおいしそうなサーモンチーズのベーグルを頬張るシーンがあるが、まぎれもなくこの店だ。

店に入ると惣菜や燻製を扱うデリカテッセンがあり、その置くにレストランスペースがある。いつもロックス&クリームチーズベーグルを頼む。すると、白いお皿に乗った絶品ベーグルサンドがやってくる。見た目はそっけない。添えてあるレモンをきゅっと絞って食べる。創業120年の味である。これまで食べてきたサーモンチーズのベーグルはなんだったのかと思えるおいしさだ。まわりを見渡すとみんなこのベーグルサンドを食べて目を細めている。ほんとうにおいしいときほど言葉は出ない。

使っているベーグルが、アッパーウエストサイドの老舗ベーグル店「H&H」のベーグルだというから泣かされる。ぼくがはじめてニューヨークでベーグルを食べたのはこの店で、なんと24時間営業。店というか工房のような佇まいで、床にはおがくずがたっぷりと敷き詰められていて、これは「カッツ・デリカテッセン」も同様で、古いニューヨークの店の風習のようなもの。こうすることによって床の掃除が楽だという。

もうひとつ注文に忘れてはいけないのが、ノヴァスコシア産のスモークサーモンを具にしたスクランブルエッグ。卵は極上Aランクを使っているとメニューにはある。たしかに黄身が濃くて、ふっくらとしている。これがまたおいしいのおいしくないの、一口食べては目をつむりたくなる。常連が必ず注文するオレンジジュース。もちろんどこよりもおいしい。瓶詰めで買えるのでテイクアウトする。

朝8時の開店と同時に、観光客というよりもニューヨーカーが一斉に来店。あっという間に席は埋まるから、少し前に行って並ぶといい、と教えてくれたのは、ニューヨークでのぼくの恩人Kさんだ。かれこれ30年以上前、最初にこの店に連れてきてくれたのも彼女だった。Kさんはオーナーのゲイリーさんと仲良しだった。席に座ると「The usual , please(いつもの)」の一声で、ベーグルサンドとオムレツとオレンジジュース、コーヒーが、さっと運ばれて、その感じがとってもニューヨーカーぽくてすてきだった。ぼくも通うようになってずいぶん経つけれど、まだ「The usual , please」は言えていない。

旅先での食事は、いつかの旅の思い出を呼び覚ます扉でもあるとぼくは思っている。おいしさとは味や香りだけでなく、音や空気や雰囲気、そのときの気持ちまでを一緒に抱え込んで心に刻まれるからだ。だからか、パリでおいしいクロワッサンを食べていると、なぜかニューヨークのベーグルのおいしさまでよみがえってくる。ひとつのおいしさが、別の場所、あの日あの時のおいしさを呼び寄せてしまうのだろう。食いしん坊だから仕方がない。
次はニューヨークで思い出すパリのおいしさを書こうと思う。
わたしの素

90年代に出版された「DEAN & DELUCA COOK BOOK」という分厚い料理本がある。写真はひとつもなく、文章だけのレシピ集だ。ぼくはこの本が大好きで、時間があるときに、気になるレシピを辞書片手に作っている。「ロックフォールチーズのサンドイッチ」はそうして見つけた一品。作って食べた途端、そのおいしさに驚いて、それからというもののわが家の定番になった。本には写真がないから、作ってみないとその料理がどんな感じなのかわからないのがまた楽しみだ。作ってみてわかる、なるほど、この料理はこういう感じだったんだ、というように。それは正解なのかどうかわからないけれど、レシピ通りに作れば、どうであろうとも正解だと信じている。ロックフォールチーズに、バターとブランデーを合わせて、フードプロセッサーでなめらかに混ぜ合わせたペーストに、りんごのスライスを乗せたサンドイッチである。グリルした赤ピーマンのスライスとくるみを添えて出来上がり。これもまたぼくにとってのニューヨークの味である。
連載
「今日もていねいに。」の扉

エッセイスト
松浦弥太郎
少しちからをぬき、キホンを大切にする松浦弥太郎さんと、彼ならではの素をつくる、くらしと食事。