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優しいケーキ

山と感覚

優しいケーキ

鈴木優香

山岳収集家

鈴木優香

いつも使っているヘアオイルが、朝晩の寒さで固まるようになってきた。それを湯煎にかけて溶かすことから、私の朝は始まる。やっと過ごしやすい気候になったと思えば、いつの間にか肌寒さを感じるようになり、思いがけず早くやってきた冬の気配に動揺を隠せない。年々、秋が短くなっているように思うのは気のせいだろうか。私はいま、薄いダウンジャケットを羽織り、ウールの靴下を履いて、熱いお茶を飲みながら原稿を書いている。秋よ、まだもう少しここにいて…

文章を書くことは以前から好きで続けていたが、今年に入ってから執筆の依頼がぐんと増えた。その内容は、山や旅の体験をエッセイや紀行文として綴ることがほとんどで、これまでに制作してきた本を読んだうえで依頼してくださる方も多い。2023年にはパキスタンのトレッキング中に書いた日記をまとめた本、2025年には自然の中で過ごした日々を綴った『手の中の珊瑚』を、どちらも自費出版で作った。次回はきっとこんな本を作るだろうなという構想も、頭の片隅に少しある。

文章を書くことは、思い出すことに等しいといつも思う。書くためには、過去の旅をもう一度歩き直すように、自分とその周りの人たちの行動や、そこに見えていた景色をひとつひとつ丁寧に振り返っていく必要があるからだ。そうしていると、ふいに記憶の蓋が開く瞬間が訪れる。忘れていたことにも気付かなかった事実を唐突に思い出したりもして、おもしろい。それから、頭の中に曖昧な状態で存在する記憶を文字に置き換えることで、記憶が薄れていくことへの怖さがなくなり、身軽になれるような気がする。ときには立ち止まって思い出す機会を作らなければ、忙(せわ)しない日々に流され、やがて忘れていってしまうから。冒頭では書くことが好きだと言ったが、書き残しておかなければという気持ちのほうが近いのかもしれない。

文章にはほとんどの場合、写真も添える。寄稿の依頼があって書くときは、新しく撮影することもあれば過去のものから選ぶこともあるが、後者のほうが断然多い。最近もちょうど他の媒体で書いている連載のために過去の写真を遡っていた。そうしているうちに関係のない写真までじっくりと見始めてしまい、数えきれないほどの山行をひとつひとつ振り返っては、あのときはああだった、このときはこうだったと、思い出に浸ってしまう。写真もまた、忘れていた記憶を引き出すきっかけになる。だから、写真はなるべくたくさん撮っておいたほうがいいと、私は思う。たとえそれが失敗の写真であったとしても。

ふと目に留まったのは、2017年の夏の写真。それは、富山で知り合った友人たちと山に登ったときに撮ったものだった。当初の計画では、折立という登山口から山に入り、薬師岳、五色ヶ原を経て、3泊4日で立山まで縦走する予定だった。しかし天候が悪くなり、2日目に薬師岳に登ったあと、先へ進まずに再び折立まで下山することにしたのだった。

そのときに使っていたフィルムカメラは調子が悪く、現像に出してみると、アンダー(光量が足りずに暗い写真になること)になってしまっていたり、黒い線が入っていたり、いわゆる失敗とされる写真が多く混ざっていた。高山植物、山の遠景、山小屋のちらし寿司弁当、朝露の輝き、カレーを食べるEさん、味噌汁をすするYさん、昼寝をするHさん、真っ白で何も見えない薬師岳山頂での集合写真。36枚撮りのフィルム2本分に、山での時間を大切に収めたものだから、現像した直後はひどく嘆いたのを覚えている。けれど、数年越しに見たそれは、すっかりいい写真に変わっていた。今はあまり会えない友人たちと過ごした優しい日の記憶が、ぎっしりと詰まっているからだ。そして気付いたことがある。そういえば最近の私は、人の写真を撮らなくなった。作品に成り得る景色の写真を撮ることばかりに囚われて、心に余裕がなくなっているのではないだろうか。これからはもっと、人を撮ろう。それはきっとこんなふうに、いつか私の支えになるはずだから。

わたしの素

1日目に泊まった太郎平小屋でのこと。夕食を食べたあと、談話室に移動して小さなテーブルを囲んで話していると、突然どこからかケーキが運ばれてきた。それは掌に収まるくらいの、丸くて小さなガトーショコラだった。「ハッピーバースデー ゆかちゃん」。手でちぎったふうの紙の旗には、そう書かれていた。そう、立山に着く予定の日が、ちょうど私の誕生日だったのだ。ほんとうは立山でお祝いするはずが、途中で引き返すことになったので、この日にしてくれたのだろう。ただでさえ重い山の荷物の中に、潰れないようにと大切にケーキを運んできてくれた皆の優しさを思うと、涙が出るほど嬉しかった。その証拠に、私はこの愛らしいケーキの写真を同じアングルで2枚撮っていた。談話室は少し暗かったので、絶対にブレないようにと思ったのだ。結局どちらもアンダーになっていたけれど。

連載

山と感覚の扉

鈴木優香

山岳収集家

鈴木優香

山は日常にはない美しい瞬間を与えてくれる場所と語る鈴木優香さんと、彼女らしさの素をつくる山登りとともにある食事。

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