映像と記憶
ドラマ制作日誌 ⑤ 現実逃避
ドラマプロデューサー
佐野亜裕美
いよいよクランクインまで3ヶ月を切った。監督が決まり、制作会社が決まり、制作部が合流してロケハンが始まり、と少しずつチームが大きくなっていく。それまで宙に浮いていたはずの私と脚本家が乗った船が、強い引力によってじりじりと地平に引き戻されていく感覚、現実の力によって今いるところから引き剥がされるような感覚があって、それはあまりにも当然のことなのに、毎回この時期、一番居心地が悪い。企画プロデューサーなのだからむしろ先頭を切ってそういうことをしなければならないのに、苦手だからと他のプロデューサーにお願いしているのはただの甘えだなと頭ではわかっていながら、できるだけ現実とは離れたところで「面白い脚本を作る」ということだけを考えていたい、と思ってしまう。現実逃避というほどでもないけれど、いつかその時が来たらちゃんと全力で走るから、それまでもう少しだけ猶予をください、というような気持ちがずっとどこかにある。

脚本打ち合わせの中で、「夢だった仕事に就いた人が一度その仕事を離れ、再び戻ってくる」というストーリーについてのアイデア出しをしていて、もし金銭的な心配がなくなったら仕事を辞めるかどうか、という話題になった。私自身は、今は1歳の子供がいるため、どうしても判断の軸が彼女になってしまい、今このタイミングで判断しなければならないとしたらたぶん私は仕事を辞めると思う、と答えた。そういう話をしながらぼんやり考えていたのは、子供がいなかったらやっぱり話は別になるなぁということだ。実は、実際に子供が生まれる前、自分自身にその問いかけをしたことがあったのだ。
2022年の冬にドラマ『エルピス』が終わり、燃え尽き症候群のような状態に陥った。今後の仕事のことや一度中断していた不妊治療を再開するかどうか悩み、「そもそも自分はこれからどう生きていこうか」と考えていた。長年抱えていた企画を放送することができたし、この仕事に就くときに自分が思い描いていたドラマを半分ぐらいは作ることができたし、今はわりと健康な40歳。このままこの仕事を続けていくことになんの疑いも持たずに進んできたけれど、またゼロから何かを新しく始められるような予感もその時はあった。近い未来の金銭的な心配はもちろんあるけれど、今すぐに仕事を再開しなくてもどうにかなるような状況でもあった。
この連載でも何度か書いているが、私はPDCAのP、計画や戦略を立てるのが本当に苦手で、幼い頃から何か目標を立ててそれに向かって頑張る、ということができない人間だ。外的な要因(失恋して相手を見返すために東大を受験するとか)で短期的な目的を持って何かに取り組むことはできても、自ら「こうなりたい」を思い描くことができない。その時面白そうだなと思った方に全力疾走というスタイルで40年間生きてきた。見たことがないドラマを作りたい。まだ知らぬ感情を知りたい。自分が想像できないものを見てみたい。ずっとその気持ちだけに動かされてきたけれど、今回はどの道に進むのが面白そうだろうか。どの道に進めば見たことがない景色が見られるだろうか。

選択肢は3つあった。仕事を辞め、昔からずっと憧れていた弁護士を目指すこと、仕事を休み、コロナ禍で中途半端な状態で帰国してしまった海外留学に再チャレンジすること、仕事を続けながら、不妊治療を再開すること。正直なところ、その時の私にとってはどの道に進んでも面白くなるように思えた。なぜだかわからないけれど、面白くしていけるような自信もあった。でも、たぶん答えは決まっていた。実際にその選択肢を考えていた期間は数週間ほどだったが、悩んでいるようで悩んでいないような、答えはもうすでにあるけれどもそれを直視しないで考えているふりをしているような時間、そのモラトリアムのような時間は、クランクイン前の今の状況に似ていたように思う。なんとなくだけど選びたい道はわかっていて、やるべきこともわかっていて、そこに移動するほんの少し前の時間。スタートは切っているけれど、まだ踏み切って飛ぶ前の助走の期間。次のドラマも、ようやく進むべき道は見えてきたような気がする。
わたしの素
育てていた糠床を、保存袋に移して冷凍庫にしまった。大切に食べていた自家製の青梅の蜜煮も食べるスピードを上げている。クランクインする1月からオンエアが終わる6月末まで、これまでどうにか頑張っていた人間らしい暮らしは一度お休みをしなければならないからだ。子供を産んでから撮影現場に入るのははじめてのことで、いったいどんな生活が待っているのか全く想像ができず、撮影と家事、育児、自分の会社の別の仕事、をどうやってやりくりするのかもイメージができず、正直なところ途方に暮れている。途方に暮れている場合ではないのに、喫緊ではないような暮らしの中の細々したことの店じまいをしている。これもまた助走期間のようなものかもしれない、と思いながら。

連載
映像と記憶の扉
ドラマプロデューサー
佐野亜裕美
社会を観測し自分の目線を大切にしている佐野さんと仕事の仲間の素となった、映像 とともにある食事。