本と生き方
付喪神と九谷焼
「コトゴトブックス」店主
木村綾子
実家の裏山には蔵があって、子供の頃、悪さをするとお仕置きとしてその蔵に閉じ込められていた。今では考えられない躾かもしれないが、そういうことが、まだ普通におこなわれていた時代だった。
私は女の子だったからというのもあってか、一人で蔵に閉じ込められた記憶はない。蔵に連れて行かれるときは、必ず兄と二人だった。
蝶番が掛けられるガチャリという音がして、「反省するまで入ってなさい」と親が言う。ごめんなさい、もうしません、ゆるしてください、と泣きじゃくりながら訴えても、外に親のいる気配はもうない。
兄は逆ギレして蔵の扉への激突を繰り返し脱走を試みるも、扉はびくとも動かない。じゃあ私はというと、泣くだけ泣いたら妙にさっぱりしてしまい、次第に目も暗闇に馴れてきて、蔵の中へと興味が向き始めるのだった。
土壁の黴びた臭いが鼻の奥を突く。ひびの割れた所から薄く光が射し込んでいて、蔵の中はまだらに闇だ。ブリキの行李が高く積まれていて、その隙間を、木箱や柳行李や段ボール、風呂敷に包まれた歪な形の何らかが埋めている。動くものはなにひとつないのに、妙な気配がして落ち着かない。ガラスケースを覆う埃を指で拭うと中は鳥の剥製で、ぎゃっと尻もちをつく。兄は飽きもせず扉への激突を続けている。ふと脇を見ると土埃をかぶった徳利やお猪口などの陶器が転がっていて、普段それが、「大人のものだから触ってはいけません」と言われている類のものだと気づく。いまなら遊び放題だと私は喜び、ままごとを始め、挙げ句兄まで誘い出す。
そろそろ反省した頃だろうと親が迎えに来る頃には兄妹ですっかり楽しくなっていて、そんな我が子を見て、親はどんなに呆れたか知れない。ちなみに、どうやら私は一人で蔵に閉じ込められることはないらしいと察した頃からは(兄は違った)、蔵に行くたび遊べるものを物色し、次来たときに備えて隠し場所を作っていたほどだった(私は本当に神経が図太い)。
その蔵も、いまはもうない。5つ下の弟が悪さをしだす頃には、人が寄り付くのも危険なほどに老朽化し(兄の激突が老朽化を早めたと思えなくもない)、家の改築を機に取り壊された。蔵の物の多くは処分されたが、いくらかは残され、プレハブの倉庫にしまわれたまま、とはいえ誰の目にも触れられず手にも取られず、ただ、あるという状態が続いている。

今年は数年ぶりに実家に帰省して年末年始を過ごした。元日も昼を過ぎればすることもなくなって、暇つぶしにノスタルジーにでも浸ってやろうかと倉庫を物色していたところ。気まぐれに開けた木箱の中に、それを見つけた。お猪口に徳利、皿や茶碗など、九谷焼の骨董が次々出てきたのだ。もちろん、それが当時蔵の中に転がっていたものと同一でないことは分かったが、あまりの数に驚き、周辺にまとめて置かれていた箱を抱えられるだけ抱えて母屋に戻り、父と母を集めた。

父も母も、こんなものがあったなんて知らなかったと驚いている。けれど、おそらく木村の家で使い継がれてきたものだろうと、父が言う。うちは本家で、建て替え前の家のお座敷には、代々の家長の遺影が長押を埋めるほどに飾られていた。
買い集めれば相当なことになるコレクションを前に興奮する私をよそに、しかし親の顔は浮かない。「こんなもの出てきちゃって困ったなあ」と父は大げさにため息をついている。そうなるとあわよくば精神がむくむくと湧き出し、「少し貰って行ってもいい?」と私が聞くと、「よければ全部引き取ってくれない?」と母が言う。「この家もそろそろ家じまいを考えていかなきゃならんから」と父が重ねる。
兄には子が二人いるが、共に娘で、弟は男児を二人持ったが、離婚後の親権は前妻が引き取った。私に子はなく、だから父の代で木村の家を継ぐものはいなくなる。少しずつ、家の整理をし始めているということだった。
「価値の分かる人間が受け継いだほうが良い」
父に言われるがまま東京の家に持ち帰ってきてしまったが、さて、果たしてこれで良かったのだろうか。

長年使われて100年を経た道具たちは、魂を得て付喪神となる。そんな話が、御伽草子の中にある。
けれど人間は、これを嫌がった。物に意識が芽生えて考えたり喋ったりすると思うと気色が悪く、扱いにくく、だから99年目の年の瀬、それらを「煤払い」と称して捨ててきた。しかし当然、物の方も黙ってはいない。捨てられた恨みと悲しみを募らせた彼らは怪しい鬼へと変幻し、人間への復讐を企てる。町田康『[現代版]絵本 御伽草子 付喪神』 によるところの、「人間むかつく。復讐してぇ」である。
かくして幕を開けた人間vs妖怪大合戦の行方は如何に。その顛末はぜひとも本書で確かめていただきたいのだが、じゃあ、今回における付喪神のお怒りがあったとしたら、それは何になるだろう。
ひとつ、何十年もの間、用も授けぬまま魂だけを生かすような仕打ちをした罪は重い。ただ、彼らを再び日の目に浴びせたのは他でもない私なのだから、こちらに分がある。
ふたつ、住み慣れた浜松から見知らぬ東京へ連れてこられた不安と悲しみはどうか。それだって、父や母との会話を聞いていれば神の慈悲にも触れるだろう。今後の扱いに気をつければ(旨いもんを盛るなどして)、なんとかなりそうだ。
問題は、アレである。お仕置きもそっちのけに、蔵の中でままごとに興じていたあの頃、私はうっかりお猪口を落とし、割れてしまったそれを思わず足で蹴って物陰に隠したのではなかったか。捨てられもせぬまま砂埃を被っていたお猪口を、粗雑に扱って割り、さらに物陰に隠す(しかも足で蹴って!)という罪。「身内の恨み、いまこそ晴らさでおくべきか」と暴動を起こされやしないかと、内心ヒヤヒヤしている。
わたしの素

東京の家に器一式が届いた夜は、浜松餃子で歓迎した。さっそくの忖度である。
我が家に元あった器とも相性が良く、食卓を整える時間がますます楽しみになったし、徳利は一輪挿しに、平皿はアクセサリートレイに、碗は鉢代わりにして苔や植物を育てたりしても良さそうじゃないかと、妄想が止まらない。
かくして、期せずして令和の東京にやってきてしまった付喪神との新生活は始まった。
彼らが喋りだす気配は、まだない。


連載
本と生き方の扉
「コトゴトブックス」店主
木村綾子
世の中の事や人の事を想い、本と人をつないでいく木村綾子さんと、彼女らしさの素をつくる、本から影響を受けた食事。