

──── 2017年、千葉県南部の大多喜町にフレッシュな果樹やハーブを素材とした蒸留酒を造る〈mitosaya薬草園蒸留所〉を立ち上げて5年。お邪魔したのは、2023年5月に清澄白河でスタートした、ノンアルコール飲料を小ロットで製造販売する缶のボトリング工場〈CAN-PANY〉。江口宏志さんの仕事は、2000年代初頭に本屋から始まったそのキャリアからは、想像もつかないところにまでたどり着いた。
「お酒に興味を持つきっかけとなったのは、当時通っていた中目黒の美容院〈mitsouko〉の工藤耕成さん。僕より1~2歳上の同世代で、話の合う、センスの良い面白い人。いつも新しいことを教えてくれて、彼からは結構、いろいろな影響を受けているんですよ」と、工藤さんとのエピソードのなかでも印象深い、忘れられない出来事を話してくれた。
「本屋さんだった頃、週に1度、神保町の古書組合へ行く度に〈丸香〉で大盛りのうどんを食べていた。だから、ちょっとぽっちゃりしてきたんです。そしたら一緒に飲みに行った時、『江口くんの仕事は、美しいものやお洒落なものを紹介する仕事だよね。だったらさ……、太ってんじゃねーよ!』と言われたんです。酔いの途中で、その言葉がショックで頭から離れなくて。それ以来、僕は大盛りを止めました(笑)」
〈mitosaya〉につながる酒との出会いは、工藤さんに髪を切ってもらっている最中だった。
「ある日、飲んで欲しいお酒があると、白いケープを付けた状態で、いきなりストレートの蒸留酒を渡された。それまで、そんなお酒の飲み方すら未経験だったのに、飲んだらまるで森の中に佇んでいるかのような香りが立って。お酒でそんな体験って初めてだったので、ものすごく感動して、衝撃を受けた。ボトルを見せてもらったら活版印刷のラベルもカッコ良く、裏にはサインとシリアルナンバーが入っていて、これは本の表紙だよね、という話をしたんです」
その時に飲んだのが、当時まだ日本にほぼ入っていなかったボタニカル・ジン「MONKEY 47」。蒸留酒が香りの酒だと知った衝撃は想像以上で、すぐに蒸留所〈スティーレミューレ〉のことを調べた。代表のクリストフ・ケラーがもともと本の編集の仕事をしていたのも、江口さんの心を酒へと動かした大きな要因となる。
「全く新しい香りの体験とともに、お酒というのがパッケージやラベルや名前といったものを含んだ総合的な表現であり、本の編集に近いのにも親和性を感じました。その後、彼のインタビューに、『 〟本は読むまで中身がわからないけれど、お酒の場合は一口飲めば誰もが味を共有できる』〝とあって。『 〟今までスノッブなアート系の奴らとしか話が合わなかったけれど、隣の農家の人も一口でこれがおいしいか、好きかどうかがわかるのがいい』〝と書いてあった。まだ造ってもいなかったけれど、なるほどそういうことか、それは面白い世界だなと思ったんです」
「MONKEY 47」を飲んで、そこから言葉通り、居ても立っても居られず、クリストフが蒸留を行うドイツへと旅立った。
「それまで面白いと思っても、わざわざ会いに行くなんてしたことがなかったけど、自分にとってはそれ程の強烈な体験だったんですよね。たどり着いた蒸留所は田舎の広大な土地の真ん中なのに、近づくにつれ、おしゃれな人たちが集まっていて、美しいボトルが並び、音楽が奏でられ、ラマや羊もいて、ここは一体何なのかという第一印象でしたね。その時に飲んだブラッドオレンジの蒸留酒は、暑かったので少しぬるかった。普通だったら不味そうなのに結果としてより香りが高まって、とてつもない芳醇さに包まれたことに、また再び驚いた。人や環境や雰囲気を含めて、そこでは五感全てがお酒をおいしくするためにあるように感じました」
まだ書店をやりながら、衝動的に訪れたドイツだったが、蒸留を勉強したいという思いに一切の迷いはなかった。最初の来訪から半年後にはすでに、蒸留所の敷地内にあったゲストハウスに家族で移住。1年弱、酒造りを学んだ。
「今日は近所の農家さんが持ってきたブドウを使って蒸留しようとか、季節ごと、毎日がやることの違う日々でした。クリストフや蒸留所を訪れる人たちとともに食卓を囲み、ゆっくりとお酒と会話を楽しむような時間の使い方がとても豊かだと感じられたのも貴重で、日本にもこういう場所が作れればと思っていました。

提供:mitosaya薬草園蒸留所
江口さんにとって人生で最も心を動かされた、クラフトで小規模な、総合芸術のような食の体験が〈mitosaya〉や〈CAN-PANY〉につながっている。「でも、残念ながらまだ全然、自分が思うようにはできていなくて」という江口さん。
「ドイツでの酒造りと同じように、小さなスケールのまま、好きなものを自由につくって手渡していくのは楽しいですが、同時に大変さもありますね。自分が生きて仕事をする、その根本には、基本的にいいことがしたいという気持ちがあって、地域環境も考えたいし、労働環境も良くしたいし、家庭も円満にやりたい。世の中に対しても、自分たちにとっても、どういうやり方をすれば、もっといい循環を得ることが可能なのかも、これから考えていきたいですね」
わたしの素
「ルーティン化を避け続ける人生を送る僕とは対照的に、ルーティンの権化みたいな妻。その暮らしのなかで僕は、朝6時20分に朝食を作ることだけ、決まってやるようにしています。メニューはお決まりの、パンとヨーグルトとフルーツ。それをジャムやハチミツと一緒に食べるんですが、常に欠かせないのが、〈mitosaya〉の敷地内で飼っているミツバチが集めてくれた自家製のハチミツ。だいたい春の終わり、夏の真ん中、夏の終わりの3回採蜜しますが、季節の花によって、それぞれ蜜の色や味が違うのが、なんだか嬉しい。少し前まで失敗を繰り返していたんですが、近所で養蜂をやっている方の助けを借りるようになって、最近は安定して食べられるようになりました」